なぜ縦振動ではなく横振動が標準になったのか — 商業的帰趨と1938年の物理的裏付け

最終更新: 2026年4月10日 読了時間の目安: 約16分

なぜ縦振動ではなく横振動が標準になったのか

このページが答える問い: レコード溝の振動方向には縦振動(ヴァーティカル、hill-and-dale)と横振動(ラテラル)の2方式がありました。なぜ最終的に横振動が業界標準として残ったのでしょうか。



答え:商業盤と放送用盤で、それぞれ別の形で横振動が勝ち残った

結論を先に述べます。横振動が標準として残った理由は、単一の出来事ではなく二段階の決着によります。

つまり、民生盤での商業的敗退(1920年代末)が先にあり、続いて放送用盤の世界で物理的裏付け(1938年)と規格化(1942年)を経て、横振動が全面的に標準化した——これが史実の順序です。1938年の論文は商業盤の帰趨を決めたのではなく、最後まで縦振動が生き残っていたトランスクリプション盤の世界で決定打として働きました。

一次資料: J. A. Pierce and F. V. Hunt, "Distortion in Sound Reproduction from Phonograph Records," Journal of the Society of Motion Picture Engineers, Vol. XXXI, No. 2, pp. 157–186, August 1938.


二種類の溝の振動方向

レコード溝の振動方向には、大きく二つの方式があります。


第1段階:民生用SP盤での縦振動の淘汰(1920年代末)

民生用レコードの世界で縦振動盤が消えたのは、論文や国際会議の結論によるものではなく、個別メーカーの事業判断の積み重ねでした。

この段階での敗退は、互換性・コスト・供給網といった商業要因の帰結です。音質や物理的な優劣が前面に出た議論ではありません。


第2段階:放送用トランスクリプション盤では縦振動が生き延びた(1930年代)

ここが見落とされがちな点です。民生市場から縦振動が消えた後も、放送局向けのトランスクリプション盤の世界では縦振動が1930年代を通じて広く使われ続けました。

トランスクリプション盤とは、放送局が番組を事前録音し、各局に配布するための業務用ディスク(多くは16インチ・33⅓回転)です。1930年代初頭に Bell Labs / Western Electric が開発した縦振動方式のトランスクリプションシステムは、次の二つの技術革新によって、当時の横振動方式より先行した録音特性を実現していました。

World Broadcasting System(1929年創業、シカゴ)など大手トランスクリプション制作会社がこの方式を採用し、1938年11月24日号の英国 Wireless World 誌は "How Electrical Transcriptions are Made: Recording in America by the Vertical Cut (or 'Hill and Dale') Method" と題した記事で、同社の16インチ縦振動トランスクリプション盤の録音風景を紹介しています。

どの程度使われていたかは、1941年のNAB調査が数字を残しています。アメリカの182局を対象にしたアンケートで、使用された番組素材の比率は次のとおりでした:

つまり1941年の時点でもなお、放送局が流す番組素材の5分の1以上が縦振動盤だったのです。Pierce と Hunt の論文が発表されたのは、この状況のただ中です。


第3段階:1938年 Pierce & Hunt の物理的証明

民生盤では決着済み、しかし放送用盤では縦振動が現役——この状況下の1938年、Pierce と Hunt は横振動と縦振動の歪み特性を理論と実測の両面から比較し、横振動が構造上、歪みを低く抑えられることを定量的に示しました。

この結論は、民生盤の帰趨をあとから追認するだけでなく、当時まだ現役だったトランスクリプション盤の世界で決定打として働きました。Hunt 自身が1965年のオーラルヒストリーで、この論文が与えた衝撃を次のように回想しています:

"Here we came into a meeting — it was first presented at a meeting of the Society of Motion Picture Engineers — and said Hill & Dale has got all the Second Harmonics; laterals has got the push pull and no second harmonics. And in effect this paper tipped the scales and within a year the Hill and Dale transcription records almost disappeared."

(我々は SMPE の会議に乗り込んで、「Hill & Dale には偶数次高調波が全部乗るが、横振動はプッシュプルで偶数次が出ない」と示した。事実上この論文がシーソーを傾け、1年以内にヒル・アンド・デール方式のトランスクリプション盤はほとんど姿を消すことになった。)

ただし Hunt 自身の回想はやや脚色を含みます。実際には1941年時点でも縦振動トランスクリプション盤は放送素材の 21.3% を占めており、「1年以内に消えた」わけではありません。1942年の NAB 規格はなお縦振動・横振動の両方について録音特性を定めています。物理的証明は一夜にして市場を変えたのではなく、数年がかりで潮目を横振動側へ傾けた、というのが実勢に近い理解です。

根拠1:溝の幾何学がもたらす「プッシュプル効果」

横振動レコードでは、再生針が溝の両側面に同時に接触しながら動きます。左右の側壁は、横方向の針変位に対して符号が反対の力を返します。

アンプ回路の push-pull 構成が、2つの素子の出力のを取ることで偶数次歪みを打ち消すのと同じ幾何学です。横振動の溝もまた、両側壁からの力のを針の運動として取り出すため、原理的に偶数次高調波が相殺されます。

Pierce と Hunt はこの現象を数学的に導出し、次のように述べています(p. 167):

"the lateral motion of the stylus during the reproduction of a lateral-cut record is determined by the fundamental and odd harmonics only ... The difference in the distortion arising in the reproduction of these two types of groove modulation is emphasised by the observation that positive drive of the stylus tip by both sidewalls of the groove yields the usual advantages of a push-pull system, with the result that a large part of the distortion inherent in the reproduction of vertical-cut records is entirely absent in the reproduction of lateral-cut records when a satisfactory lateral reproducer is employed."

(横振動盤の再生時に生じる針の横方向運動は、基本波と奇数次高調波のみによって決定される……この2種類の溝変調の再生に生じる歪みの差は、溝の両側壁によって針先が能動的に駆動されることがプッシュプル方式の通常の利点をもたらし、その結果として、縦振動盤の再生に本質的に伴う歪みの大部分が、適切な横振動再生器を用いれば横振動盤の再生からは完全に取り除かれる、という観察によっていっそう強調される。)

縦振動では両側壁が同位相で上下するため、この相殺は起こりません。偶数次を含む歪み成分がそのまま出力に乗ります。

根拠2:実測で示された歪みの差

Pierce と Hunt は理論値を実験で検証しました。縦振動と横振動の歪みを実測・比較した結果、次の結論を得ています(p. 171):

"In general the distortion obtained in lateral reproduction is always lower than in vertical but it varies much less rapidly with the parameter introducing the distortion."

(概して、横振動再生で得られる歪みは常に縦振動より低く、しかも歪みの原因となるパラメータの変化に対する増加ははるかに緩やかである。)

"In the case of lateral this saturation value is approximately 48 percent; for vertical the saturation value is nearly 80 percent."

(横振動の場合、この飽和値はおよそ48%、縦振動の場合の飽和値は80%近くに達する。)

ここで示される 48% / 80% は飽和値、すなわち変調が極限まで深くなったときの上限値です。通常再生での典型値ではないことに注意してください。通常の再生条件における歪みはこれよりずっと低い値になります。重要なのは絶対値そのものよりも、同じ条件で比べたときに横振動の歪みが縦振動を常に下回るという定性的な結論、そしてその差が記録振幅の変化に対してゆるやかに変化するという安定性です。

根拠3:ピンチ効果という横振動側のハンディキャップ

ここで一点、横振動側に固有の弱点にも触れておきます。**ピンチ効果(pinch effect)**と呼ばれる現象です。

横振動の溝を断面で見ると、変調の山谷に応じて溝の幅がわずかに変化します。針が変調部分を通過するとき、針は溝の狭まりに押し込まれ、信号基本周波数の2倍の周期で上下にも動かされます

Pierce と Hunt はこの現象を次のように記述しています(pp. 162–163):

"it will be seen at once that the stylus must rise and fall twice during the tracing of each fundamental wavelength. This phenomenon appears to have been ignored or neglected in previous discussions of the so-called 'pinch effect,' but it leads to the necessary conclusion that in ideal reproduction for lateral-cut records the ideal reproducer must embody sufficient vertical flexibility to enable the stylus to execute this motion faithfully."

(針は基本波の1波長をトレースするあいだに2回上下しなければならない、ということが直ちに見て取れる。この現象はこれまでの「ピンチ効果」に関する議論では無視ないし軽視されてきたようであるが、横振動盤の理想的な再生のためには、この動きを忠実に実行できるだけの十分な垂直方向の追従性を理想的な再生器が備えていなければならない、という必然的な結論に導かれる。)

さらに、当時の横振動型ピックアップには垂直方向の可動機構が欠けていたため、針が溝に強制的に押し込まれ、溝壁を削ってしまうという問題もありました(p. 162):

"Since the mass of the reproducer head and arm is too large to be vibrated at signal frequencies, the stylus is driven into the groove in the 'pinched' sections. This gouges out the groove walls, producing additional surface noise and altering the original groove shape."

(再生ヘッドとアームの質量は大きすぎて信号周波数で振動できないため、針は「狭まった」部分で溝のなかへ押し込まれる。これが溝壁を削り取り、余計な表面ノイズを生むとともに、元の溝の形状を変えてしまう。)

ピンチ効果は横振動の溝形状そのものに起因する現象であり、縦振動では生じません。それでもなお、横振動のプッシュプル相殺による歪み低減効果は、ピンチ効果のハンディを差し引いても縦振動を上回るというのが Pierce と Hunt の結論でした。そしてこの弱点は、再生ピックアップに十分な垂直コンプライアンスを持たせる、という設計課題として後年に引き継がれることになります。


規格としての縦振動は、いつ消えたのか — NAB/NARTB 規格の変遷

Pierce と Hunt の論文のあと、縦振動盤は放送規格から一夜にして消えたわけではありません。NAB(のちの NARTB)の録音・再生規格の改訂をたどると、縦振動が正式に規格から外れるまでには20年以上を要したことがわかります。

1938年の物理的証明から実に26年後の1964年になって、ようやく規格レベルで縦振動が姿を消したことになります。NAB/NARTB 規格の策定経緯と改訂の詳細は 世界初の録音再生規格 — 1942 NAB 規格とは を参照してください。このタイムラグは、Hunt 自身が後年の回想で語った「1年以内に消えた」という印象と、現場での実勢との乖離を示すものとして興味深い事実です。規格というものは、現場が先に動き、制度が後から追認するかたちで更新されていく——縦振動盤の退場プロセスはその典型例のひとつと言えるでしょう。


LP レコードへの含意:1948年の設計前提

Pierce と Hunt の論文が発表されたのは1938年ですが、それがそのままLP規格の誕生につながったわけではありません。第二次世界大戦による研究中断、ヴァイナル素材の確立、加熱針(ホットスタイラス)技術の成熟、軽針圧ピックアップの開発など、複数の技術的前提が揃うまでには約10年を要しました。

1948年にコロンビアが発売した33⅓回転LPは、横振動・マイクログルーヴ・ヴァイナル・軽針圧という複数の技術を統合したものです。横振動を採用する選択は、商業的にはすでに既定路線でしたが、マイクログルーヴ化によって高密度・広帯域を狙うという設計目標に対して、Pierce と Hunt が示した歪みの物理的裏付けは重要な支柱として機能しました。

→ LP 誕生の経緯と技術系統については LP を発明したのは誰か?、および レコード再生の技術はどう進化したか? を参照してください。


このページが扱わないこと

このページは「なぜ横振動が残ったのか」という問いに、商業的経緯と物理的裏付けの二層で答えることに絞っています。以下については扱いません。


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