LCR で録音された盤を RC のフォノイコで再生すると、位相は揃うのか?
LCR で録音された盤を RC のフォノイコで再生すると、位相は揃うのか?
このページで答える問い: 戦後の米国業界でディスクをカッティングする側 (録音側) は LCR 実装が主力でした。一方、民生用の RIAA フォノイコライザーは圧倒的に RC 実装が多数派です。この topology 差は、振幅応答だけでなく位相応答にも影響を与えるのでしょうか。同じ時定数 (75 / 318 / 3180 μs) を前提にしても、再生側の回路構成によって帯域端の残留位相が変わる可能性があります。
最初にひとこと
このページは、どのカーブで再生すべきかを議論する場ではありません。 本 FAQ の前提は 75 / 318 / 3180 μs の 3 時定数で定義された同一の RIAA カーブ です。違いは「時定数そのもの」ではなく、「その時定数を実現する物理実装の topology」にあります。
議論の見通しを先取りすると:
- 数学的には、LCR と RC は一次系として完全に等価です。振幅応答・位相応答とも区別がつきません
- 違いが出るのは、実装が二次系を含むとき、および一次系同士でも段構成 (アクティブ回路への組み込み方) が違うとき
- シミュレーションで確認すると、帯域端 (20 kHz 付近) の残留位相は実装 topology の class によって符号まで変わる場合があります
これは「音として聴き取れるかどうか」とは別の話題であり、非 RIAA 論 (カーブ違い論) とも独立軸です。
1. 一次系として LR と RC は等価
時定数 τ が同じであれば、インダクタと抵抗による L/R 並列と、キャパシタと抵抗による RC 並列は、一次系として同じ伝達関数を与えます。振幅応答も位相応答も 20 Hz から 20 kHz まで完全に一致します。L と R の直列や C と R の直列についても同様です。
したがって、EQ カーブを「3 つの一次系の和」として記述するかぎり、LCR 言語で書こうが RC 言語で書こうが、規格文書としては同じカーブを定義しています。この点の詳細は、別ページ 規格文書の時定数表記は LCR から RC にいつ書き換わったのか? で整理しました。
つまり「LCR か RC か」という二分は、規格の数学的内容を決める違いではありません。違いが出るのは、規格から離れた物理実装の細部です。
2. 実装で違いが出るケース
大きく 2 種類のパターンがあります。
2.1 二次系 LRC が登場するとき
実装にインダクタがあり、かつ並列 LC タンクのような二次系が含まれている場合、一次系の和では再現できない共振点が発生します。1940 年の RCA Master Reference Book SECTION II に収録された放送局トランスクリプション用 Orthacoustic 補償器は、並列 LC タンクを 2 段含み、共振点 ~407 Hz と ~8.16 kHz を持つ二次系応答を示していました。
このタイプの実装で録音された盤を、一次系の RC フォノイコライザーで再生すると、共振点の周辺で振幅・位相ともに残差が残ります。これは時定数定義の LCR/RC という wording の問題ではなく、実装が二次系であるか一次系であるかの問題です。
1940 年代 RCA の Orthacoustic 補償器は業務用トランスクリプション (放送局向け 16 インチ盤) の実装であり、1950 年代以降の民生用マイクログルーヴ LP 録音チェーンが二次系実装をそのまま継承していたかどうかは、現時点では未確定です。
2.2 同じ一次系 RC でも段構成が違うとき
もう一つの場面は、録音側・再生側ともに一次系 RC 構成であっても、アクティブ回路への組み込み方が違うケースです。再生側のフォノイコライザーには、歴史的に少なくとも以下の 2 つの topology class が使われてきました。
- NF-CR 型: 真空管 (またはトランジスタ) アンプの負帰還ループ内に RC イコライジング回路を配置する。Marantz 7C (1958) や Luxman CL35/III (1974) はこちら
- passive interstage CR 型: 段間にパッシブで RC イコライジング回路を挿入する。RCA Receiving Tube Manual RC-20 (1960) p.412 のプリアンプはこちら。RCA が自社公式出版を通じて 1950 年代を一貫して推奨していた構成
両 class は、理想線形動作条件では振幅応答が 1 kHz 基準で ±1 ~ 3 dB の範囲に収まります。しかし帯域端 (特に 20 kHz 付近) の残留位相は、class の違いによって符号まで変わることがあります。具体的な数値を次節で見ます。
3. シミュレーション結果
筆者が LTspice による線形小信号等価モデルでシミュレーションした結果の要約を下の表に示します。1 kHz を 0 dB / 0° の基準とし、20 Hz / 10 kHz / 20 kHz の 3 点で残差を読みました。録音側は 1950 年代中期の RCA ラテラル録音 EQ の推定再構成 (constant-impedance 500 Ω、インダクタ使用の LCR 構成)、再生側は 4 種類の実装を比較しています。
| 録音 × 再生 | 20 Hz | 10 kHz | 20 kHz |
|---|---|---|---|
| 理論 RIAA pre × 理論 RIAA playback (基準) | 0.00 dB / 0° | 0.00 / 0° | 0.00 / 0° |
| 1950 年代 RCA LCR × RCA 1960 RC (passive interstage CR) | -1.06 / +32.8° | 0.00 / -28.4° | -1.73 / -53.6° |
| 1950 年代 RCA LCR × Marantz 7C (1958, NF-CR) | -2.02 / +1.4° | +0.39 / -3.4° | +0.35 / -4.6° |
| 1950 年代 RCA LCR × Luxman CL35/III (1974, NF-CR) | -3.18 / +6.7° | +1.32 / +6.1° | +2.35 / +13.7° |
| Neumann SE-66 × Marantz 7C (参考) | -1.64 / +10.3° | +0.10 / -22.6° | -0.31 / -52.4° |
特に注目すべきは、同じ LCR 録音に対する 20 kHz 付近の位相残差が、再生側 topology class によって符号まで変わることです:
- passive interstage CR (RCA 1960 RC-20 系): -53.6°
- NF-CR (Marantz 7C): -4.6°
- NF-CR (Luxman CL35/III): +13.7°
興味深いのは、RCA が 1953 年から 1960 年まで自社公式出版で一貫して録音カーブ (New Orthophonic → RIAA) の純正再生側として推奨していた passive interstage CR 型でさえ、-53.6° というそれなりの 20 kHz 位相残差を残していることです。録音側・再生側が同一メーカー・同時代の「純正ペア」でも、完全一致にはなりません。
4. シミュレーションの射程と限界
前節のシミュレーションは、真空管とパッシブ素子を小信号線形等価モデルで扱っています。具体的には:
- 真空管は μ (増幅率) / r_p (内部抵抗) / g_m (相互コンダクタンス) の 3 パラメータ線形モデル
- 入力信号は微小振幅で、動作点周辺でのみ線形
- 大信号歪み、出力クリップ、電源リップル、熱的挙動、真空管個体差は含まない
この範囲で見えるのは周波数応答 (振幅・位相) だけです。「音質」についての判定は含まれていません。実機は非線形動作・部品誤差・カートリッジとの負荷条件があり、シミュレーションと完全には一致しません。
また、同じ 1950 年代 RCA LCR 録音を、1960 年代の passive interstage CR で再生しても、1958 年の Marantz 7C で再生しても、1974 年の Luxman CL35/III で再生しても、いずれもRIAA 規格の ±2 dB tolerance に収まる実装です。どれが間違いということではなく、どれも規格動作範囲内での実装差を示しています。
シミュレーション回路の選定根拠と詳細は、ブログ連載 Pt.26 (準備中) で扱います。
5. 射程と限界の宣言
5.1 音として聴き取れるかは別論点
20 kHz 付近の位相残差が -53.6° または +13.7° という数値は、周波数応答の測定値であって、聴感上の違いを直接意味しません。実際の聴覚系が高域の位相ずれにどの程度敏感かという議論は、別ページ EQ カーブの違いは実際に聴き分けられるのか? を参照してください。
5.2 非 RIAA 論とは独立軸
本 FAQ が扱ったのは、同一時定数 (75 / 318 / 3180 μs) を前提にしたときの、実装 topology 差による位相残差です。一方、「米国ステレオ LP は非 RIAA カーブで録音されている」といった非 RIAA 論は、時定数そのものが違うという主張です。両者は独立した議論であり、本 FAQ のシミュレーション結果は非 RIAA 論を支持する根拠にも反証する根拠にもなりません。
具体的には:
- 再生側 topology による位相残差は、可変 EQ で時定数を切り替えて追い込む対象とは原理的に別のものです。前者は同一時定数下の first-order RC 実装間の違い、後者は時定数そのものの違いを示唆します
- 位相残差があることが、録音時に別の時定数が使われた証拠にはなりません
- 振幅で ±2 dB / 位相で ±54° 程度の残差は、3 項の和という定義の数学から必然的に出てくる first-order 動作の範囲内での実装差です
非 RIAA 論についての整理は別ページ 米国製ステレオ LP は RIAA カーブで録音されているのか? にまとめています。
6. もっと詳しく
- 規格文書の LCR → RC 表記変遷の整理: FAQ A (規格文書の時定数表記は LCR から RC にいつ書き換わったのか?)
- 規格の定義形式 (グラフ / 時定数) と実装回路種 (LCR/LR/RC) は独立した二軸であることの整理: 別 FAQ「規格の時定数定義は回路実装と独立だったのか?」(準備中)
- ブログ連載 Pt.23 §23.1: 1972 年 Stereo Sound 誌の 21 機種計測観察 (位相振幅のばらつき実測)
- ブログ連載 Pt.23 §23.2: Nicholas Bergh 氏 (ARSC/AES) 2022 年 12 月メールの引用
- ブログ連載 Pt.26 (準備中): シミュレーション詳細、1940 年 RCA Orthacoustic 補償器の primary source 分析、Nick 往復書簡要旨
- 信号系統 EQ 以外で音に効くもの: 実装ばらつき一般の扱い
結び
LCR で録音された盤を一次系 RC のフォノイコライザーで再生しても、振幅応答では区別がつきません。これは一次系の数学的性質として確かです。ただし位相応答は、実装 topology (二次系か一次系か、NF-CR か passive interstage CR か) によって帯域端で残差が変わり、場合によっては符号まで逆転します。
-53.6° (1950 年代 RCA LCR × RCA 1960 RC passive interstage) と +13.7° (同 × Luxman CL35/III NF-CR) のように、同じ録音ソースから出発しても、再生側の topology class によって残留位相の符号すら変わることが、シミュレーションで確認できました。
これを音として聴き取れるか、聴き取れるとして音像や音色のどこに効くかは、聴取実験と心理音響の領域です。本 FAQ はその開かれた問いの入口にすぎません。