規格文書の時定数表記は LCR から RC にいつ書き換わったのか?
規格文書の時定数表記は LCR から RC にいつ書き換わったのか?
このページで答える問い: 1953 年 NARTB 規格や 1953 年 AES 規格の原文を読むと、低域のベースシェルフが「インダクタと抵抗の並列回路(L/R)」として定義されています。ところが 1964 年以降の NAB 規格や 1978 年 RIAA Revised 版では、同じ時定数が「キャパシタと抵抗の組み合わせ(RC)」のみで書かれ、L/R の記述は消えています。この書き換えはいつ起きたのか、どういう意味があったのかを整理します。
最初にひとこと
このページは、どのカーブで再生すべきかを議論する場ではありません。 75 / 318 / 3180 μs という三つの時定数は、1953 年の NARTB 規格から現代の RIAA Revised 版に至るまで一貫して同じ値です。ここで扱うのは、その同じ時定数を規格文書がどの言葉で書いたかの変遷だけです。
結論を先取りすると、3 項の和で定義されるカーブ自体は、LCR 言語で書いても RC 言語で書いても数学的には同じ曲線になります(一次系として完全等価、振幅応答も位相応答も同一)。したがって書き換えは計算上のカーブを変えていません。ただし、書き換えの過程で消えた「暗黙の示唆」については第 5 節で扱います。
1. 規格文書の年表
| 年 | 規格 | 定義形式 | グラフ上限 |
|---|---|---|---|
| 1942 | NAB Recording and Reproducing Standards | グラフのみ(時定数記述なし) | 10 kHz |
| 1945 | NAB Engineering Handbook 3rd ed. §21.1 | 1942 規格を再録、グラフのみ | 10 kHz |
| 1949 | NAB 規格改訂 | ディスクカーブは 1942 年版を据え置き、グラフのみ | 10 kHz |
| 1953 | NARTB 規格改訂 | LCR 時定数 (L/R parallel + RC series + RC parallel) | 15 kHz |
| 1953 | AES Proposed Disk Standard | LCR 時定数 (RC parallel + RC series + L/R parallel) | 15 kHz |
| 1954 | RIAA Bulletin E1 (原典) | 未入手。グラフのみの可能性あり | 不明(15 kHz の蓋然性) |
| 1964 | NAB 規格再改訂 (Hess 編) | RC 時定数のみ (L/R の記述なし) | 15 kHz |
| 1978 | RIAA Bulletin E1 Revised | RC 時定数のみ | 20 kHz |
1942-1949 年の NAB 系は、時定数を文字に書き下さずグラフで定義するパラダイムを続けていました。時定数表記が登場するのは 1953 年 NARTB / AES からです。そこから 1964 年 NAB / 1978 年 RIAA に至る間に、定義言語が LCR から RC へ書き換えられています。
2. 1953 年 NARTB / AES の LCR 定義 (直接引用)
1953 年 NARTB 規格 §1.55 "Frequency Characteristics for Lateral Recordings" の脚注は、ラテラル録音カーブを次のように定義しました。
"This curve is defined as the algebraic sum of the ordinates of three individual curves which conform to the admittances of the following three networks expressed in db: a) A parallel L/R network having a time constant of 3180 microseconds. b) A series RC network having a time constant of 318 microseconds. c) A parallel RC network having a time constant of 75 microseconds."
(このカーブは、次の三つの回路網のアドミッタンスに従う各曲線の縦軸を代数的に合算したものとして定義される(単位は dB)。 a) 時定数 3180 マイクロ秒の L/R 並列回路 b) 時定数 318 マイクロ秒の RC 直列回路 c) 時定数 75 マイクロ秒の RC 並列回路)
— NARTB Recording and Reproducing Standards, 1953, §1.55 脚注
同じ 1953 年 12 月、AES Journal に掲載された "The Proposed AES Disk Standard" §1.2 "Curve Derivation" も、同一の三つの時定数を RC 並列 / RC 直列 / L/R 並列の組み合わせとして定義しています(順序は NARTB と入れ替わっています)。
"The characteristic curve is defined as the algebraic sum of the ordinates of three individual curves which conform to the impedances of the following networks expressed in decibels (db). Curve I. A parallel combination of a resistor and capacitor having a time constant of 75 µsec. […] Curve II. A series combination of a resistor and capacitor having a time constant of 318 µsec. […] Curve III. A parallel combination of a resistor and inductor having a time constant of 3180 µsec. […]"
(特性カーブは、次の回路網のインピーダンスに従う各曲線の縦軸を代数的に合算したものとして定義される(単位は dB)。 カーブ I. 時定数 75 マイクロ秒の抵抗とキャパシタの並列回路 […] カーブ II. 時定数 318 マイクロ秒の抵抗とキャパシタの直列回路 […] カーブ III. 時定数 3180 マイクロ秒の抵抗とインダクタの並列回路 […])
— "The Proposed AES Disk Standard", Journal of the Audio Engineering Society, December 1953, §1.2
両者とも、低域のベースシェルフ (3180 μs) をインダクタと抵抗の並列回路として記述していることに注目してください。規格文書の文面として L/R (インダクタと抵抗) の表記が現れる、これが 1953 年時点の状態です。
3. 1964 年 NAB / 1978 年 RIAA Revised の RC 定義 (直接引用)
1964 年 NAB 規格 (Hess 編) の再生特性定義は、同じ三つの時定数を次のように書いています。
"Reproducing characteristic — with constant velocity of the reproducing stylus tip the curve of voltage output of the reproducing system versus frequency shall be that which results from the combination of three curves as follows: — one falling with increasing frequency in conformity with the impedance of a parallel combination of a capacitance and a resistance having a time constant of t₁ (75 µsec) — one falling with increasing frequency in conformity with the impedance of a series combination of a capacitance and a resistance having a time constant of t₂ (318 µsec) — one rising with increasing frequency in conformity with the admittance of a series combination of a capacitance and a resistance having a constant of t₃ (3180 µsec)"
(再生特性。再生系の針先が一定速度で振動したとき、再生系の出力電圧 対 周波数特性は、次の三つのカーブを組み合わせた結果とする。 ・時定数 t₁ (75 マイクロ秒) のキャパシタと抵抗の並列回路のインピーダンスに従って、周波数とともに下降するカーブ ・時定数 t₂ (318 マイクロ秒) のキャパシタと抵抗の直列回路のインピーダンスに従って、周波数とともに下降するカーブ ・時定数 t₃ (3180 マイクロ秒) のキャパシタと抵抗の直列回路のアドミッタンスに従って、周波数とともに上昇するカーブ)
— 1964 NAB Audio Recording and Reproducing Standards for Disc Recording and Reproducing, R. Hess ed., Section III
1978 年 11 月 6 日改訂の RIAA Bulletin E1 "Statement of Recording Characteristics" も、同じく RC のみで定義しています。
"With constant voltage applied to that point in the recording chain where the normal signal has the frequency characteristic that it is desired subsequently to reproduce, the curve of recorded velocity versus frequency shall be that which results from the combination of the following three curves: — one rising with frequency in conformity with the admittance of a parallel combination of a capacitance and a resistance having a time-constant of t₁, — one rising with frequency in conformity with the admittance of a series combination of a capacitance and a resistance having a time-constant of t₂, — one falling with rise of frequency in conformity with the impedance of a series combination of a capacitance and a resistance having a time-constant of t₃."
(録音系の該当地点に一定電圧を加えたとき、再生時に得られる録音速度 対 周波数特性は、次の三つのカーブを組み合わせた結果とする。 ・時定数 t₁ のキャパシタと抵抗の並列回路のアドミッタンスに従って、周波数とともに上昇するカーブ ・時定数 t₂ のキャパシタと抵抗の直列回路のアドミッタンスに従って、周波数とともに上昇するカーブ ・時定数 t₃ のキャパシタと抵抗の直列回路のインピーダンスに従って、周波数とともに下降するカーブ)
— RIAA Bulletin No. E 1 (Revised: November 6, 1978), "Statement of Recording Characteristics"
三項いずれも "capacitance and resistance" (キャパシタと抵抗) のみで記述され、1953 年版にあった L/R (インダクタと抵抗) の記述は完全に消えています。さらに 1978 年 Revised 版では、周波数応答の上限が 15 kHz から 20 kHz に拡張されました(1964 年 NAB までは 15 kHz のまま)。
4. 1954 年 RIAA Bulletin E1 原典は未入手
1954 年 1 月に承認された RIAA Bulletin No. E1 の原典 (1978 年 Revised 版の元になった初版) は、筆者の手元にありません。AES 会員・ARSC 会員としてアクセスできるリソースでも、現物が確認できていない状態です。1954 年版を実際に入手できたという研究者の報告も、2026 年 4 月時点では公に知られていません。
したがって、1954 年原典が LCR で定義していたのか、RC で定義していたのか、あるいは 1942 年 NAB と同様にグラフのみだったのか、いずれも直接確認できない状況にあります。
隣接する史料からの状況証拠を挙げると:
- 1953 年の NARTB と AES はいずれも LCR で定義していた(前節参照)
- 1942 / 1945 / 1949 年の NAB 系はグラフのみで時定数記述を持たないパラダイムを維持していた
- 1969 年頃の Westrex RA1703 カッティングアンプ付属文書 "Appendix C" は RIAA カーブを 1953 NARTB と同じ LCR 定義で引用しており、かつ周波数表は 15 kHz までで "20 kHz: No Figure Given" と注記していた
- 当時 Sony で TA-1120F のイコライザー部を設計していた中川伸氏 (フィデリックス創業者) も、1969 年時点の RIAA には「アバウトな表しかなかった」と述懐している
- AES 標準化の中心人物だった McKnight は 1982 年の回顧記事で、1954 年の AES TSA-1-1954 と RIAA は同じ特性を同年に採用したと述べ、さらに RIAA 元文書について「the document carries neither an identifying number nor date, but was later identified as 'Bulletin No. E1,' with appropriate revision dates」(番号も日付もない文書だったが、後年 Bulletin No. E1 として識別され、改訂日が付けられた)と記録している(J. Audio Eng. Soc. 30(4), p.244, 1982 April)。AES TSA-1-1954 が 15 kHz 上限であることから、同 characteristic を採用した RIAA 1954 も 15 kHz 上限である蓋然性が論理的に補強される
これらから、1954 年原典は LCR 定義かつ 15 kHz 上限だった蓋然性が相対的に高いと推察できます。ただしこれは現物確認ではなく傍証の積み上げであり、原典入手まで確定事項ではありません。
原典の追跡は本プロジェクトの継続課題です。
5. 書き換えに意味はあったのか
結論から言うと、規格文書の文面としては数学的に lossless な書き換えです。
時定数 τ が同じであれば、τ = L/R の L/R 並列と τ = RC の RC 並列は、一次系として完全に同じ伝達関数を与えます(振幅応答・位相応答とも同一)。1953 年 NARTB / AES も 1964 年 NAB / 1978 年 RIAA も、三項いずれも一次系として記述されているため、項の和としても等価性は保たれます。したがって:
- 1953 年版の LCR 定義と 1964 年以降の RC 定義で、計算上のカーブは一切変わりません
- 時定数の数値 (75 / 318 / 3180 μs) も維持されたまま書き換えられました
- カーブ合成結果の周波数応答・位相応答ともに同一です
では書き換えで何も変わらなかったのかと言うと、文書が読み手に伝える「暗黙の示唆」については変化があったと筆者は考えています。
1953 年の L/R 表記は、実装にインダクタが関与していることを暗に示していました。当時の業務用カッティング機器には実際にインダクタを用いた回路が残っており、"L/R" という wording はその現場実装との整合を暗黙に伝える働きをしていました。
1964 年の書き換えはこの示唆を消しています。規格文書だけを読む限りでは、実装がインダクタを含むか否かは判別できなくなりました。数学的には同じカーブでも、文書が現場実装を暗示する役割を失ったという意味では情報が縮減しています。
この書き換え以前の現場実装が具体的にどのような回路構成だったのか、そしてその実装の cue が消えたことでどういう論点が見えにくくなったのか、という話は、ブログ記事の研究ノートとして別途執筆予定です。
6. もっと詳しく
- 録音側が LCR / 再生側が RC という topology 差が残留位相に与える影響は、別 FAQ「LCR で録音された盤を RC のフォノイコで再生すると、位相は揃うのか?」(準備中) で扱います
- 規格の定義形式 (グラフ / 時定数) と実装回路種 (LCR/LR/RC) は独立した二軸であることの整理は、別 FAQ「規格の時定数定義は回路実装と独立だったのか?」(準備中) を参照
- 1942 年 NAB のグラフのみパラダイムの詳細は 世界初の録音再生規格 1942 NAB 規格とは
- カーブの違いが聴き取れるかどうかは別論点: EQ カーブの違いは実際に聴き分けられるのか?
- 書き換えで消えた示唆の深掘り (1940 年代の実装例、LCR 録音盤を RC で再生したときの位相挙動の定量化) は、ブログ連載 Pt.26 の研究ノートとして執筆予定
結び
規格文書の wording は、1953 年 NARTB / AES の時点では LCR でした。1964 年 NAB 以降は RC に書き換えられています。時定数の数値は維持されたまま、文書が暗示していた実装の示唆が消えた、という変化です。
この書き換えが具体的にどの年に起きたのか、1954 年 RIAA Bulletin E1 原典はどの言語で書かれていたのか、そもそもグラフのみだったのか。いずれも現時点では確定的な答えがありません。1953 年から 1964 年の間を埋める1954 年 RIAA 原典の現物確認が、この変遷の境界線を決定する鍵となります。