EQカーブの違いを客観的に計測できるか?
LP の録音 EQ カーブが何だったか、再発・リマスター盤の音作りが原盤とどう違うか。こうした問いに、主観的な試聴ではなく客観的な計測で答えようとすると、道具として LTAS(長期平均スペクトル) が候補に上がります。本サイトの Liner Notes II シリーズ(II-a / II-b / II-c)では、 1950年代の Capitol レコードを題材に、この道具で何が見えて何が見えないかを実例で示してきました。本 FAQ はその要点を圧縮した見取り図です。
短い答え
完全に客観的とは言えませんが、道具を限定し条件を揃えれば、一定の答えが得られます。 LTAS が比較的強く示せるのは、
- 同じセッションマスターから派生した盤同士の音作りの違いを、帯域ごとに数値で並べること
- カッティングカーブ(AES か RIAA かなど)の 間接的な傍証 を取ること
この 2点までです。そこから先には、カッティング段の物理的なばらつき、プレス段の個体差、再生環境の影響、そして LTAS そのものの原理的な限界、という 4つの留保 が必ずついて回ります。
計測の道具:LTAS とは何か
LTAS(Long-Term Average Spectrum, 長期平均スペクトル)は、ある一定の時間にわたって信号を周波数ごとに平均化したエネルギー分布のことです。「この曲全体を通じて、 1 kHz の成分はどれくらいの強さで、 5 kHz は、 10 kHz は」 という形で、音の周波数バランスを 1本の曲線で表します。
同じセッションマスターから派生した複数のリリース(オリジナル盤、再発盤、リマスター盤、デジタルトランスファー)を同じ環境で LTAS にかけて並べると、帯域ごとの違いが数値として見えてきます。 Liner Notes II-b では H-488 “Songs For Young Lovers” から派生した 5つのリリースを並べ、 12インチ再発 W-587 が 10インチ初期プレスより 5〜12 kHz で +6〜+9 dB 明るく、 1998年のディジタルリマスターが低域で +4 dB 厚い、といった音作りの方向性を数値で読み取りました。
ただし LTAS は「平均」 ですから、短い時間の中で起きる音の動き(楽器の立ち上がりの瞬間など)は均されて見えにくくなります。これは後の「LTAS そのものの限界」 で具体的に触れます。
計測の限界:4つの「留保」
LTAS で見える違いを「ある盤のカッティングカーブが何だったか」 と直接結びつけたり、「リマスターの音作りはこういう意図だった」 と確定的に断定したりするには、以下の 4つの軸でそれぞれ留保がつきます。
カッティング側のゆらぎ
同じセッションマスターを同じカッティングチェーンで複数回カットしても、結果は完全には一致しません。カッターヘッドの温度、針の摩耗、アンプの安定性、当日の温度・湿度、エンジニアの細かい調整など、様々な物理要因がそれぞれ ±1〜2 dB 程度のばらつきとして乗ります。
Liner Notes II-a で扱った H-488 の初期プレス D2 と D4 の比較は、まさにこの「同じカーブと推定される、 同時期の別カッティングのあいだのばらつき」 の実例でした。 LTAS で見える差が ±1〜2 dB の範囲に収まる場合、それがカッティング機材の物理的なゆらぎなのか、マスター側の本質的な差なのかは、単独では切り分けられません。
カッティングカーブの候補は、再生側で AES/RIAA を切り替えたりディジタル変換をかけたりして、理論上の残差が減るかどうかを検証できますが、カッターヘッドの個体差や当日の調整のような細部までは、公開されている機材スペックや録音セッションログのような一次史料の力を借りないと届きません。
プレス側のばらつき
同じスタンパーから何千枚もの盤がプレスされますが、スタンパーは使うほど摩耗します。新品のスタンパーで作られた盤と、交換直前にプレスされた盤では、溝の角の鋭さが微妙に違い、高域帯のレスポンスが数 dB 動く可能性があります。
加えて、1950年代前半は塩ビ(PVC ビスケット)の品質と均質性が業界全体として十分高くなく、サーフェスノイズの質や材質の安定性は、ビスケットごと、工場ごとに大きな差があったと考えられます。こうした工場側の質の違いが、同じセッションマスターから出た盤同士でも、LTAS で見える結果に影響している可能性は否定できません。
プレス差や材質差が LTAS にどの程度の影響として出るかを定量的に切り分けるには、同じマトリクスの多数盤を同じ環境で盤起こしして比較するしかなく、単独観察では「可能性は否定できない」 の範囲を超えられません。
再生側の影響
LP を聴くには、必ず何らかのカートリッジ・トーンアーム・盤の組み合わせを通します。そして、この再生側の特性が LTAS の結果に直接乗ります。カートリッジの高域共振、針先の形状(球面、マイクロライン等)、トーンアームの慣性、盤の溝形状と針先接触点の相性が組み合わさり、 LP から取り出される高域は数 dB のオーダーで動き得ます。
同じ盤・同じ機材であっても、別の日に行った盤起こし同士で系統的な差が出ることもあります。 Liner Notes II-c で示した H-477 の同じ面を別日に 2回盤起こしした例では、再生 EQ の違いを差し引いた残りの部分でも 1 kHz で +1.4 dB、プレゼンス帯(4〜8 kHz)の平均で +1.8 dB の系統差が現れました。トラッキング調整や盤のクリーニング状態など、その日の何かが違ったと推測できますが、特定はできていません。
1 dB 単位で議論する場合には、比較する盤起こしは 同じ日に連続して 行い、可能なら一度の盤起こしからディジタル変換で派生させる、という設計が必要になります。
LTAS そのものの限界
LTAS は「ある時間範囲で周波数ごとに平均したエネルギー」 を見る道具です。平均化されることで失われる情報があります。具体的には、ブラシやスティックの一撃のような 短時間の立ち上がり が均されてしまい、はっきり見えなくなります。
Liner Notes II-c で扱った B Sharp Blues の例が分かりやすい実例です。 T-477 を録音マスターのディジタル転写 (Mosaic Records、 マスターに近い外部基準) と LTAS で比較すると、 B Sharp Blues では 4〜8 kHz 平均で +2.08 dB という控えめな差に見えました。しかしドラムスのスティック当たりの瞬間に着目し、立ち上がりの鋭さ(クレストファクタ、信号の最大値と平均値の比)を計算すると、 +3.96 dB という明確な差が現れます。同じ二つの盤を、 LTAS は「ほぼ同じ」 と言い、立ち上がりの解析は「目立って違う」 と言うのです。どちらも誤りではなく、違う側面を見ているだけです。
より厳密な検証には、同じマトリクスの多数盤を同じ環境で盤起こしして比較する、という解析設計が必要ですが、現実には状態の揃った多数盤を集めて単一環境で扱うことは難しく、本シリーズも単独観察を組み合わせる形で進めてきました。
それでも何が言えるか
「LTAS は傾向を示す道具で、問いを確定する道具ではない」。こう書くと一見妥協のように聞こえますが、むしろ逆です。道具の限界が分かっているからこそ、 どこまでは言い切ってよく、どこから先は推測として書くべきか の線引きができます。
LTAS が捉えられない部分は、別の道具で少しずつ補えます。スペクトログラム(時間と周波数の両方を同時に見る図)でカッティングマスターのリードテープ痕跡を観察して系譜を逆算する、立ち上がりエンベロープで動的な強調を読む、同じマトリクスの多数盤を集めて比較する。三部作 II-a / II-b / II-c は、そうした「道具の組み合わせ」 の最初の一歩のつもりで書きました。
「客観的に計測できるか」 という問いには、「条件を揃えれば一定の範囲で計測できる、そして計測できる範囲そのものを正直に書き残す」 が、筆者なりの答えになります。
もっと知りたい方へ
- Liner Notes II-a: Capitol H-488 “Songs For Young Lovers” の初期プレス D2 / D8 を LTAS とディジタル変換で読む実例。「カッティング側のゆらぎ」 D2/D4 比較もここ
- Liner Notes II-b: 同じセッションマスターから派生した 5リリース(W-587 / W-1432 / ECJ-50017 / MFSL 1-130 / 1998 CD)の音作りを横並びに読む実例
- Liner Notes II-c: Capitol H-477 “The Duke Plays Ellington” と再発 T-477 の解析。本 FAQ で要約した 4つの留保(カッティング / プレス / 再生 / 解析手法)の詳細はこの記事の II.5 にあります
関連 FAQ:
変更履歴
- 2026年6月14日: 初版公開