諸事情ありまして、予定より遅くなってしまいましたが、大変おまたせしました!インタビュー Pt. 2 です。
今回は 拡大版 (Extended Version) でお届けします。
↓サイモンガー・モバイルさん、ファンクラ大臣さんインタビュー!ファンにはたまらない!興味深い話が!サイモンガーさん、最初はYMOだったの?!やはりこの世代はここから始まり、それぞれに枝分かれしていくのか!宅録、ポータサウンド、かごやはうす!なんてキーワードが!!
— 鈴木由花/11/27試聴室その2ライブ (@yuka415) November 18, 2015
われわれの歴史を暴露してしまうロングインタビュー、いよいよ本編が始まりました。これからも注目頂ければ!
How The Funk Was Won: The Simonger & Funk Story, Pt. 1 https://t.co/fa2cGKOU9V
— ファンクラ大臣@CD制作中 (@dieginn) November 18, 2015
母親が楽しみにしてるロングインタビュー、パート1がアップされました。 https://t.co/uFrC0j3AHZ
— サイモンガー12/26新宿 (@smgfnk) November 18, 2015
インタビュー Pt. 0(ちびっこインタビュー編)、Pt. 1(サイモンガーさんと大臣さんの小中学生時代〜初めて出会うまで)に続き、本インタビューの中で最初の山場となるであろう、豊橋・豊川でのバンド時代のエピソードです。
当時の雰囲気を可能なかぎり再現したく、追加質問や事実確認をメールやメッセンジャーなどで数多く行いました。そして時系列を整理、メンバーの皆さんですら久々に思い出したであろう濃厚なエピソードの数々が明らかとなり、私もたいへん興奮しながら作業したパートです。
加えて幸運なことに、当時のバンドメンバーの方にも追加インタビューを行うことができ、別の視点から当時の状況がさらに肉付けできたのではないかと思います。
ご協力いただいた皆さま、本当にありがとうございます!
(Interlude: 筆者による余談)
以下、完全な余談となりますが、ちょうど今回の舞台となる 1984年〜1988年あたり、筆者(インタビューア)はどんな日々を送っていたかといいますと(私にとってはちょうど中3〜高2にあたります)。
幼稚園から一所懸命取り組んでいたピアノ。受験勉強の忙しさなどから選択を迫られ、1984年(中2)にクラシックピアノの道をあきらめることにして(それまでは、いちおう音大の先生の自宅通いして習ってました 笑)。
ほどなく福岡県北九州市から静岡県清水市(現・静岡市清水区)に引っ越し、毎日楽しく勉強に没頭しながら、音楽は専ら「聴く専」へと移り。演奏しながら勉強は出来ませんが、聴きながら勉強はできますしね(笑)
1984年秋、中2の2学期中間試験の前日のこと、夜中のFM放送で出会ったビートルズが入り口で、その流れでブリティッシュビートとかあの時代の普通の米英ロックを掘っていただけなのに。高2の時やはり深夜に勉強中、たまたま深夜FM放送で流れたガレージ・サイケデリックロック特集で脳天ぶち抜かれ、輸入レコード屋漁りにも更に熱が入り。とはいえ当時の静岡市内のレコード屋はたかが知れていて。
学習塾の冬期講座ではるばる東京に泊りがけで行ったときは、偶然にも塾の所在地がなんとあの(笑)コレクターズショップの聖地、西新宿 で。
受験勉強もそつなくこなしつつも、時間を作ってはマニアックなレコード屋巡りや英語の音楽本漁りをしたり。Domenic Priore 著の伝説の書籍 “Look! Listen! Vibrate! SMILE!” を出版直後に(1988年12月29日、西新宿のコレクターズレコードショップ WoodStock にて 4,500円で)買い、夢中になってホテルで読み漁ったのもこの頃でした。
また(中2の時に今は亡き祖母に買ってもらった)当時のマイコン SHARP X1D で簡易データベースソフトを自作、海賊盤のディスコグラフィー資料やら分析記事やらを整理したり。海賊盤LPの裏のライナーノーツを次々翻訳しては、毎日のように昼休みに職員室を訪れ、担任教師に英語で質問しながら添削をお願いしたり。
そんな、現在の雑食性オールジャンル嗜好(1920年代の音源から現在進行形まで)、音楽・レコード考古学的嗜好(世界中の音楽を紐解きパズル的に楽しみ、メディアそのものにも強い興味を持つ)につながる、ウブな最初期でした。1989年に現在の心の導師、セロニアス・モンクやジェームス・ブラウンを知ることになる、ほんの1年前。
現在の私の主な好み(戦前〜戦後ジャズ、ソウル・ファンクも含めたさまざまな黒人音楽、コテコテジャズやジャイブ、ブラジル音楽、シューゲイザー、ガレージ・オルタナ系B級ロック、エレクトロニカポップ、20世紀の現代音楽、ノイズ系、ヒルビリー/カントリー、その他もろもろ各国の民族音楽やポピュラー音楽史)。そういった音楽への入り口を微塵も知らず、いや、知るチャンスもなかった時代でした。
すみません、個人的な余談が過ぎてしまいました(笑)
ともあれ、筆者が清水でそんな毎日を過ごしていた頃、お隣の愛知県で起こっていたことを、今回こうやってインタビューで伺う。
しかも今の自分の耳には、サイモンガーさんや大臣さん達が当時演っていた音楽は、音楽的嗜好にどれもこれもドストライクときてます(ストライクゾーンが無尽蔵に広すぎという話もありますが 笑)。
なんとも、因果というか、至高の幸福を感じてしまいます。
では、お待たせしました。インタビュー本編をお楽しみください!
Contents / 目次
インタビュー登場人物
Pt. 2: サイモンガー meets 大臣
(Pt. 1 から続く)
で、高校ぐらいになると、多重録音一辺倒だったわたくしもですね、バンド を始めるわけですよ。
「衆議院」というバンドだったんですけども。
「衆議院」
「衆議院」は「いつでも解散できるように」そのバンド名にした、って話ですよね。
相当異常なバンドでした(笑)
のちにサイモンガー(加藤)さんに確認したところ、バンド「衆議院」の結成は 1984年(中学3年生)の夏〜冬頃にさかのぼるそうです。加藤 さん (kbd)、河井克夫 さん (g, ds, 他) に加え、ヴォーカリスト、初代ベーシストの4人で結成されたそうです。
なお、当時のサイモンガー(加藤)さんの 源氏名 ステージ名は ヒンギィ出杉 あるいは ヒンギィ歌麿 だったそうです(笑)
結成当初は、特にライブ活動を見据えたバンドというわけではなく、インタビュー Pt. 1 にも出てきた ハヤシ楽器 に集まっては、楽器を鳴らして遊んでいたんだそうです。
衆議院としての初ライブは1985年春、豊橋の STUDIO 8 というライブハウスだったそうです。これに前後してメンバー変更があり、セカンドキーボードのメンバーが追加されたほか、初代ベーシストの方が脱退、代わりにサイモンガー(加藤)さんの1年先輩の 北村 さんがベーシストで加入されました。この北村さんについては、本稿後半で改めてご紹介します。
なお、STUDIO 8 について、サイモンガーさんから補足情報をいただきました。
サイモンガー(加藤)さん:
STUDIO 8 は、ジャズピアニスト 吉田通雄 さんがやってたお店。同級生の実家でもあります。ここが衆議院のデビューライブをやったハコで、すでに閉店しているのですが、2年前の年末にサイモンガー・モバイルの凱旋ライブのために1日だけ復活しました。
さっき「イラケレすごい」って言ってましたけど(注:インタビュー Pt. 0 後半を参照)、もっとすごかったね!
- 参考: YAMAHA CS01
(サイモンガーの彼岸、2004年4月12日)
「圧力団体」
のちの追加インタビューにて、お二人のバンドが初めて出会われたのは 1985年8月、豊橋の貸しライブハウス「テントホール」での対バンライブであることが判明しました。大臣さんいわく、「安かったので、当時の高校生ライブの聖地でした」 とのことです。また、サイモンガーさんによると、この日は衆議院の2度目のライブだったそうです。
実はここね、あ、これって、言っていいのかな?
で、当時の豊川のライブハウスに、それこそ普通にツアーで来てる頃に(大臣さんは)たぶん爆風スランプを観て、それでコピーを始めたはずです。だからまだ全然、メジャー音源とかも出る前の話です。当時としては珍しいバンドでした。
のちに大臣(陶山)さんに確認したところ、バンド「圧力団体」の結成は 1985年4月(高校入学直後)とのことです。かごやはうすでステージに立つ爆風スランプを毎月のように観に行き、そこで知り合った方と意気投合、それぞれベースとヴォーカルを担当。小学校の1年先輩の凄腕ギタリストにも声をかけ、ドラマーはハヤシ楽器にメンバー募集を貼り、応募してきた方から選んだそうです。
ファンクラ大臣(陶山)さん:
ヴォーカリストの作った歌詞が最初にあり、それに陶山が曲をつけました。その曲「たけやぶやけた」のために、メンバーを集めました。
ライブをやるのに、他のレパートリーがなかったので、爆風スランプのコピーを入れたというのが、実際のところです。
なお、かごやはうす については、やはり当時豊橋・豊川で活動されていたバンド、「まるごま」の web サイト に当時を偲ばせる解説が載っているのを見つけました。以下、大臣さんによる追加情報です。
ファンクラ大臣(陶山)さん:
まるごまさん、サウザンド・スクラッチさん、Bパラさん、あたりの、愛大のみなさんにも、圧力団体は当時とても可愛がってもらってました。愛大の Trip A Day にも、2年連続で(高校生のくせに)出して頂いてました。
結局来なかったんですけど(笑)
そこに(圧力団体で)史上初の高校生バンド で出させてもらったんですよ。
当時はこの小麦粉パフォーマンスの他にも、いろいろやらかしておられたそうです(笑)
ファンクラ大臣(陶山)さん:
ドラゴン花火パフォーマンスも、86年までは毎回の恒例でした。
ドラゴン花火を口にくわえ、炎を吹くパフォーマンス。僕とヴォーカリストだけがやってたのですが(笑)。
ちなみにそれは野外ライブ限定でしたが、確かテントホールでも1回やってしまった記憶があります。
この、衆議院と圧力団体が初めて対バンで出会った日(1985年8月、於テントホール)、そして圧力団体の単独ライブ(1985年8月、於かごやはうす)のことを、のちに(2004年頃)お二人は振り返っておられます。
生々しいレポートのような語り口があまりにも印象的でしたので、一部を除いてほぼ原文のままでここに掲載させていただきます。まるで今回のわたしのインタビューを予見し補完することを意識されていたかのごとく(笑)11年前に完璧にまとめて下さっています。
ファンクラ大臣(陶山)さん:
1985年の圧力団体は、自分で言うのもなんですが、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでありました。
出るコンテスト全て優勝して勝ち進み、中部・東海地方の決勝まで順調に勝ち進んでいきました。
レベッカ、VOW WOW、FENCE OF DIFFENCE らとステージを共有したものです。
次回は全国制覇だとばかり、メンバーの鼻息は荒立っていたものです。
ヤマハのサポートを受け、順調にオリジナル曲を増やしレコーディングを重ね、まさに破竹の勢い。
サイモンガー(加藤)さん:
我が「衆議院」は、全員素人同然。
イベント内で占めるポジションはもうブッチギリで「イロモノ」でした。
まあいま思うと、ヴォーカリストが即興でアフリカ人の暮らしと悲しみを歌う「原住民」などは、フェラ・クティばりのアフロファンクだったりしますが、なんせ演奏が素人なので、音楽としての成立度は限りなく低かったような。
そこへ来ると、大臣の「圧力団体」は、高校生ながら確かな演奏力と、ショーマンシップに満ちたボーカリストを擁する非常に完成度の高いバンドで、この日ももちろんメインエベンター。
この時点で彼我の差は大きかったのですが、やっていることのオリジナル度は衆議院の勝ちだ、と密かに思っていました。大臣の「圧力団体」は、爆風スランプ のコピーを中心に演奏していましたから。
大臣作の、とても出来の良いオリジナル曲を1曲持っていたけど、そのタイトルからして「たけやぶやけた」で、いかに爆風スランプを強くフォローしていたバンドであるかがわかります。
圧力団体の名誉の為にいっておくと、当時爆風スランプのコピーバンドは彼らが「全国初」だったらしいです。
「あんなに上手いのに、オリジナルも作れるのに、何故爆風?」という疑問を感じながらも、大臣という男の才能を認識し、勝手に一目置かせてもらう事にしました。
ファンクラ大臣(陶山)さん:
そんな中、テントホールのタイバンで初めて見た衆議院には、さすがにビビリました。
まずオリジナルをやっている!しかも破壊的にファンキーだ!今思えば演奏が破壊的だったのだけれど、当時は完全に「やられた」と悔し涙を流しました。これホント。
しかもチョッパーベースと言えばオレ様、と自負していたのに、そこの北村さんというベーシストはベキベキチョッパーしている!
「カツオ」というサザエさんみたいなひょろ男は、かねがねやりたいと思っていた日本語ラップをさらりとやってのける!それが後の 河井克夫 さんだったとは!
おまけに異種ライトハンド奏法と言えばオレ様だと自負していたのに、そこの ヒンギィ出杉 というキーボード弾きはショルダーシンセでライトハンドをやってる!
…まぁシンセでライトハンドやること自体ナンセンスにも程があるのだが…その時は圧倒されましたよ。
そんな「衆議院」という恐ろしい連中がいる、と言うことをその時心に刻み込んだものでした。
その時、ライトハンド野郎同士ということで、初めてヒンギィと口を聞いたような気がします。
その「ヒンギィ出杉」がその後「ヒンギィ歌麿」→「ヒンギィ・Dee」と成長し、1995年に「サイモンガー」として再誕生するわけです。
サイモンガー(加藤)さん:
大臣率いる「圧力団体」は、その後も勢いに乗り、ついには「かごやはうす」でのワンマンライブを迎えることに。高校生バンドがかごやでワンマン、などというのは当時そりゃもう普通に考えてありえないことだったんです。
この日のライブはかごやはうすの歴史に残るものになりました(まあ小さい歴史だけども)。
狭い店内に300人近くの観客がひしめき合う中、圧力団体はオリジナルを大幅増強してきていました。とりわけラップナンバーの2曲「Pressure Power」と「ごきぶりハウス」は、後の大臣のファンク傾向を先取りしたものだったと思います。
ライブ後半、小麦粉にまみれるギタリスト。「オレはこんな汚いのイヤダー」と言ってシャンプーをかぶり全身を洗い出す。ステージ上の全員が小麦粉にまぎれる。
多分後でスタッフにこってり怒られたはず(笑)
ファンクラ大臣(陶山)さん:
かごやはうす単独ライブはまさに絶頂、記録的動員と激アツイ盛り上がり、破天荒なステージ、小麦粉シャンプーも怒られたどころか十分なリアクションをもらえましたよ。終了後メンバー全員で雑巾がけをしましたが。
そこで披露した数曲のオリジナル、モンガの書くようにファンク指向のはしり、この辺の曲がこのバンドのその後の命運を握っていたような気がします。
ちなみに初オリジナルで様々なコンテストを驀進した「たけやぶやけた」は、ベースのライトハンド奏法など、様々なエッセンスを凝縮したハードロックナンバーでしたが…。
そんな絶頂期の圧力団体には怖い物はありませんでしたね。正直天狗もいいとこでした。
当時の高校生バンドと言えば、アースシェイカー に 44マグナム、レベッカあたりのどんぐりの背比べだったのですが。
後日、追加インタビューをお願いしているとき、サイモンガーさんのお宅から 当時のカセットテープが発掘されました。録音は大臣さん。
その中にはなんと、おふたりが初めて対バンされた1985年8月テントホールでの演奏、衆議院 の「原住民」が収録されていたのです!まさに、高校1年8月当時の陶山青年の度肝を抜いた「原住民」そのものだそうです!
ありがたくも、私もその「原住民」を拝聴させていただく光栄にあずかりましたが、もうとんでもない音源でした。当時知っていたら間違いなく追っかけになっていたレベル。
アゴゴのようなチープな音をイントロに、チョッパーベースがベッキンベッキン絡み、更にパンクなギターリフが追い打ちをかけ、狂い叫ぶようなパンキッシュなヴォーカル。アウトロでは日本語ラップもフィーチャー。リズムマシンによるバックの音色と相まって、もう見事にファンクでパンクです。最高に無茶苦茶でガレージです。高校1年生とはにわかに信じがたいレベルの、荒削りな魅力あふれる、恐るべきオリジナリティです。
なお、サイモンガーさんによると、アゴゴのような音は、Roland のシンセ SH-101(河井さん所有)のシーケンサーと、サイモンガーさんが中3の正月にお年玉で買ったという KORG DDM-110 という初期の PCM リズムマシンを同期させて鳴らされていたそうです。また同じく DDM-110 はドラムパートを鳴らすのに使われていたそうです。
更に、当時の「圧力団体」の音源も聞かせていただきました。こちらは SoundCloud や YouTube で公開されていますので、ここでも紹介できます。
まずは「たけやぶやけた」から。いかにも爆風スランプの「たいやきやいた」を下敷きにしたタイトルですが(笑)いつでもメジャーデビューに向けて準備万端、とでもといった完成度と、曲のオリジナリティはさすがですね。この音源は、1987年1月25日「豊橋かごやホール」出演時のものだそうです。1985年当時の「たけやぶやけた」が残っていれば、ぜひ聴いてみたいです。
そして、なんと1985年当時、すでに プロモーションビデオ を作っていたという圧力団体。そのビデオに映る当時の豊橋の風景は、そこに住んでおられた方にとっても懐かしい風景ではないでしょうか。音も、景色も、何もかもあの1980年代っぽい作り、本当に懐かしいです。そして高校1年生バンドにして、この楽曲「ごきぶりハウス」の完成度!バッキンバッキンのチョッパーベース!
「ザ・スタンダード」
ザ・スタンダードは、圧力団体とほぼ同時期の1985年春に結成。大臣(陶山)さんが「打ち込みポップスをやりたくて作ったユニット」だそうです。もともとは女性ヴォーカリストと陶山青年だけの「デモテープのみの活動」のユニットだったそうですが、せっかくなのでライブをやろう、ということで、1985年6月に初ライブを行ったそうです。
のちのお二人(いや、お三方)の活動の直接的な源流となる、この「ザ・スタンダード」というバンド、本インタビュー連載の Pt. 5 で再び登場します。どう「始まり」「最初」だったのかは、その時までのお楽しみ、ということで。。。
その鍵盤の1人が、バンドを続けられなくなりまして。そんな深刻な事情はなかったよね?
ただ、そこそこ動けるバンドにしたいよね、って話になって。
それこそサイモンガーと同じで、多重録音から始まったバンドだったんで。バンドとして動けるように、というだけですね。
で、そのバンドのセカンドキーボードとして入れていただきまして。
カセットテープを使った4チャンネルミキサー・レコーダー、YAMAHA CMX1 は1985年に、CMX100 は1988年に、それぞれ発売されたそうです。取扱説明書 PDF(CMX1, CMX100)は現在でもダウンロード可能です。
後日、この「ザ・スタンダード」の初ライブの音源も聴かせていただきました(1985年6月頃、テントホールでのライブ)。シンセ大フィーチャーの中、女性ヴォーカルをフロントに据えてセカンドヴォーカルが絡む、じっくり作りこまれたエレクトロポップといった趣。バックが打ち込み音源という、サイモンガー・モバイルやファンクラ大臣トリオのフォーマットは、この時から既に確立していたということになりますね。
衆議院 ⇄ 圧力団体 ⇄ ザ・スタンダード
っていう、そんな高校生時代を過ごしていたんです。
また、大臣さんは当時、ここまでに登場したバンドのほかにも、数多くのユニットを組んで活動されていたそうです。後日行った追加メールインタビューからは、高校生時代の陶山青年がものすごい勢いで活躍されていたことが伺えます。
ファンクラ大臣(陶山)さん:
1985年、中学の同級生で組んだハードロックバンドでは、キーボードを担当していました。当時は圧力団体の弟分的な存在で、はやっていた王道ジャパメタをコピーしていました。1986年に私はバンドを離れますが、その後バンド名を変え、1990年くらいまで全国ツアーを行なったり、TV出演したり、メジャーデビュー寸前まで大活躍していたみたいです。
1986年〜1987年、当時の高校生バンドの仲間達が一堂に会して、バカをやるユニット「脳淋水産省」もありました。ナゴムの 人生 が当時かごやはうす・かごやホールによく出演しており、その人生のコピーバンドをやろうといって、上に書いたバンドのメンバーを中心にたちあがり、私やモンガ(加藤)も含め、最大20人以上のパフォーマンス集団として何度もライブをやっていました。陶山と加藤がオケを作っており、オリジナル曲もだんだん増えていきました。
人生のコピーバンド「脳淋水産省」1987年のライブDVDを見てます。色々たまらんです。後ろの方で手を合わせて立っているのが俺。 http://t.co/TfvbB0d4
— サイモンガー12/26新宿 (@smgfnk) December 19, 2011
ファンクラ大臣(陶山)さん:
1987年、当時高3の頃、受験の大義名分もあり、バンド活動は控えていたのですが、同級生4人で組んだ学園祭バンドで BAND EXPLOSION ’87 にシライミュージックから出してみたら、トントン拍子で中部決勝まで進んでしまい、中部ローカルのTV出演も果たしてしまいました。やはり王道ジャパメタのコピーバンドでしたが、アイドル性が強く、業界ウケしたみたいです(笑) そこで私はドラムとアレンジを担当していました。
圧力団体終了間際の1987年はじめ頃、当時のドラマーが Roland S-50 と MC-500 を購入し、密かにインストの打ち込み曲を大量に作っており、それがとても良かったので、私がヴォーカル、ベース、ギターを入れて数曲仕上げ、1987年のCBSソニーオーディション(テープ審査)に出してみたら、なんとありがたいことに、東京でのショーケースライブのオファーを頂きました。ところが、私が期末テストか何かで出られないということになり、それっきりになってしまった悲しいプロジェクトでした。
その他、通っていた高校では、その年のテーマソングを決めるイベントが毎年あり、私もオリジナル曲「919はルームナンバー」という曲で応募、自信満々で挑みましたが、僅差で敗れてしまいました。そのとき優勝したのは、のちの日本を代表する世界的パーカッショニスト、加藤訓子 さん率いるガールズバンドでした(笑)
- 参考: KUNIKO PLAYS REICH: Electric Counterpoint Version For Percussions
(拙ブログ過去記事、2013年11月18日)
じゃあ「ファンクってなに?」ってなるんですけど、実は(当時は)何も聴いたことがない、という(笑)
その後、上京してからの話になるわけです。
チョッパーベース + 16ビート + 打ち込み&シンセ = ファンク。
そんなスタート地点から始まったおふたりの音楽活動。「衆議院」「圧力団体」の2バンドの衝撃の出会いののちも、「ザ・スタンダード」を含め数々のユニット・バンドを通じてお二人の交流は更に深まり、ともに相手を認め合い、ともに音楽活動をするようになり。
サイモンガーさんと大臣さんの間をつなぐ、現在に至る厚い信頼関係と友情の源泉を垣間見た気がしました。
さて、次回 Pt. 3 は、大臣さんが上京されていた時代のエピソードです。この時代に、サイモンガーさんと大臣さんは、あふれんばかりの大量のインプットを得て、来るべき本格的音楽活動開始(そしてファンクさんとの運命的な出会い)に向けての仕込みをされることになります。レコード・コレクター的にも興味があるエピソードが出てきます。ぜひお楽しみに!
(Reprise: 「衆議院」二代目ベーシスト、北村さんへのインタビュー)
本インタビュー記事をまとめているうち、当時「衆議院」の二代目ベーシスト(1985年〜1987年頃)を務められた 北村 さんと、幸いにもコンタクトをとることができました。直接の面識がないわたくしに対し、メッセンジャー経由での各種質問に大変丁寧に答えてくださいました。
サイモンガーさん、大臣さんとは違った目線から、当該インタビューの時期を振り返ることのできる、本当に貴重なインタビューになりました。北村さん、この場を借りてお礼申し上げます。ご協力いただきまして、本当にありがとうございます。
まず、音楽というか、楽器を始められたきっかけについて教えてください。
中学生になった時に YAMAHA の CS01 というミニ鍵盤のシンセサイザーを買ってもらいましたが、これが単音しか出せない楽器だったため、細野晴臣氏のパートだったシンセベースをまねて弾いていました。
そんな中、YMOの1979年のワールドツアーで、細野氏が「東風」という曲を MUSIC MAN のベース で弾いている映像を見て、無性にベースが欲しくなり、高校1年生の時に、ハヤシ楽器でベースを購入したのがベーシストとしての始まりです。
北村さんがご覧になった映像はきっと、あの伝説の、YMO の1979年8月2〜4日、Greek Theatre でのライブでしょうね。The Tubes のオープニングアクトであったにもかかわらず、結果的にアメリカの観客を大熱狂させたあのライブ。細野晴臣さんが唯一、シンセベースではなくエレクトリックベースを持ち、ほとんどチャック・レイニー張りのとんでもないプレーを披露する、そして渡辺香津美さん一世一代(?)のギターソロが炸裂する、あの「東風」。
余談ですが、筆者は「いわゆる」フュージョンがあまり好きではない時代が長く、渡辺香津美さんを知ったのも和ジャズの文脈からでした。よって愛聴盤は例えば「Lonesome Cat」(1978)ではなく、森剣治さんのリーダーアルバムに参加した「Firebird」(1977)だったりします(笑)
では、北村さんのインタビューに戻りましょう。
皆さんと知り合いになった経緯について、覚えておられますか?
衆議院は、よくハヤシ楽器のスタジオで練習をしておりましたので、他のメンバーにもハヤシ楽器で出会っております。
そんな時に、衆議院の初期メンバーの脱退などがあって、加藤氏から加入のお誘いがあったと記憶しています。衆議院加入後も、前述のバンドのドラムは並行して続けていました。
また、ベースのレコーディング(多重録音と言った方が正確かもしれませんが)で何度か加藤宅にお邪魔したことがありますが、部屋に「月刊・住職」という、ディープなお寺専門誌が何冊か置いてありました。喫茶店とお寺にどんな関係があるのか?と不思議に思った記憶があります。
衆議院のライブを録画したビデオテープが自宅にあったはずなのですが、何年か前から行方不明になっており、懸命に探しています。そのライブでは、「トルプス1号」という変な名前の楽器(どちらかと言えばオブジェに近いもの)が登場します。意外とステージを占領して邪魔でしたので、そのライブ以降は全く使われていないと思います(笑)なんとかビデオテープを見つけ出して、データ化したいと考えております。
トルプス1号(笑)という不思議な楽器については、製作者である大臣さん、そして衆議院で使用されたサイモンガーさんから後日コメントをいただきました。
ファンクラ大臣(陶山)さん:
トルプスの存在自体すっかり忘れてましたし、衆議院で使ってもらってたことすら覚えてませんでした(笑)
簡単に申し上げると、僕が中3の時の、夏休みの自由研究で作った「楽器」です。
立花ハジメ さんが、当時自作の楽器をつくってパフォーマンスしてらして、それが、「アルプス1号」からはじまって、3号くらいまであったのかな?そのマネして、鉄パイプを組んで、タッチセンスで、シンドラ(BIAS-1という当時のシンセサイザードラム)を鳴らすように作った、オブジェみたいな楽器です。
実際には、たまにしか音は鳴らなかったよね確か。
でっかかった。1m立方くらいあったよね。モンガには迷惑かけました(笑)。
サイモンガー(加藤)さん:
トルプス1号は使わないときはうちに置いていたのですが、とにかく邪魔でした(笑)
衆議院のライブで借りた事がありましたが、湿気や静電気の影響を受けまくり、演奏の上で狙い通りの効果で鳴ってくれた事はなかったです。結局センサーを外してシンドラ叩いてましたね(笑)
とっても難儀な楽器だったんですね(笑)ではでは再び、北村さんへのインタビューに戻りましょう。
ベースパートとしては、Aメロは音が動きまわるフィンガーフレーズ、サビ前からサビにかけてはスラップという、まるでベース教則本の練習曲のようなバランスの、とても弾き応えのある曲です。ベーシストとして技術的に大きく成長できた曲だと今でも思っています。
先日、サイモンガーさんのご好意で、1986年当時の「くるしゅうない ちこうよれ」(河井克夫作詞・ヒンギィ出杉作曲)も聴かせていただきました。荒削りながらも相変わらずのこのオリジナリティは脱帽です。ただし、聴かせどころが大幅にシフトしています。
1985年のパンキッシュな問題作「原住民」から1年後。ヴォーカリストが入れ替わったことでパンク色が薄まり、ヒンギィ出杉(現サイモンガーさん)色がより強くなったことにより、緻密にアレンジされ打ち込まれたバッキングトラックは既に現在のサイモンガーさんの仕事を彷彿とさせます。北村さんのチョッパーベースも自然にアレンジに溶け込み違和感がなく、かつしっかり目立っています。そして河井さんによるウィットに富み、かつリズミカルな歌詞。まさにサイモンガー・モバイルの真の源流ここにあり、という印象です。
また、サイモンガーさんからもコメントをいただきました。
サイモンガー(加藤)さん:
この曲は、ダブルラジカセから4トラMTRにステップアップした頃に作りました。私が考えた、手で弾くには無理のあるベースラインを完全コピーで弾いてくれる北村さんがとても頼もしく感じました。
そして我が家では、「原住民」と共に、さっそく iTunes 入りしました(笑)ジャケ写がないので、衆議院議場の写真を暫定ジャケとしました(笑)
中期〜後期はメロディーラインのしっかりした曲が多く、初期とは異なり、叫びではなく、お間抜けな感じの歌詞を真剣に聞かせるバンドだったと思います。ボーカルも途中で変わりましたし。
歌詞は、あとからじわじわ効いてくる(良く聞くとツボにはまる)感じのものが多かったです(笑)
基本的なベースラインはデモテープを聞いてなるべく忠実に演奏していましたが、スラップのアレンジや、間奏中のちょっとしたアレンジなどは、比較的自分の感性で弾かせてもらえたので、弾き手としては、とても楽しかったです。
北村さんの仰る、「お間抜けな感じの(けれども、あとからじわじわ効いてくる、良く聞くとツボにはまる)歌詞を真剣に聞かせる」というスタイル。まさに今のサイモンガーさんの活動と一本筋が通っているように思えて、思わず深く首肯しました。
陶山氏は、当時から演奏も動きも派手で目立つ存在でしたが(笑)、現在のライブ映像などを見ると、すごく上手に歳を重ねた感じがします。貫禄と言いますか、、、とても羨ましいです。
よって、世間でよく耳にするような「音楽性の違い」とか、「不仲」とか、そういった理由ではありません(笑)
当時は、圧倒的にメタルやハードロックバンドが多かったと記憶していますが、圧力団体にせよ、衆議院にせよ、世間の流行と少し色は違えど、魂が通ったバンドが豊橋・豊川には多かったと思います。
高校生の時、衆議院ではない、ドラムをやっていた方のバンドで YMF(ヤングミュージックフェスティバル)という全国区のアマチュアバンドコンテストに応募したことがありますが、運良く1次審査を通過して愛知県大会に出ました。その時は、もちろん圧力団体も1次審査を通過していましたし、他にも豊橋の楽器店から応募したバンドが、何バンドか愛知県大会に出ていた記憶があります。確か、圧力団体は愛知県大会も通過したんじゃなかったかな?(ウチはそこで落ちましたが)
私自身は、衆議院脱退後、ステージ上でベースを弾くことはなくなりました。20歳を過ぎた頃から、歌ものポップスバンドでキーボードを弾いたり、現在活動しているフュージョンバンドでもキーボードを担当しておりますが、積極的にオリジナル曲を作ってレパートリーに取り入れています。これも、当時の活動スタイルが影響していると考えています。
今でも、ときおり自宅でベースを手にし、ちょっとだけ弾いてみることはあります。当時と比べると腕は相当落ちていますが、もし「1日限りの衆議院復活ライブやるよ!」と招集が掛かっても困らないよう、こっそり練習している次第です(笑) 招集はないと思いますが(爆)
(Reprise 2: サイモンガーさんへの追加インタビュー)
そして、北村さんへのインタビューが決まった頃、同じくサイモンガーさんにも追加で質問をお願いしました。結果的にそれが、サイモンガーさんにとって当時の北村さんという存在がどれだけ大きく重要なものであったか、そんなことが伝わって来る追加インタビューとなりました。
- 参考: YAMAHA DX7
(サイモンガーの彼岸、2004年4月14日)
賞は取れなかったのですが「名古屋のレコーディングスタジオで録音できる権」みたいなのを貰い、レコーディングをしました。ちなみにその時のコンテストで優勝したのは、電気グルーヴ「虹」のヴォーカルなどでも知られる 五島良子 さんでした。
1986年に衆議院の曲として作りましたが衆議院でやる機会が無く、1987年に英語の歌詞を付けて大臣ボーカルのデモを作った後に、また別の歌詞を付けて圧力団体のナンバー「宝くじ」として復活。
1992年の上京後、既に漫画家として活動していた河井さんと1997年に再会し、元の「貯金」としてレコーディング。中野タコシェでカセットテープを販売(売上3本)。
後に河井さんと結成したアーバンギャルズのナンバーとして2006年に復活。自作曲でこれほどリメイクしたものは他にないという意味で、印象深い曲です。
先日「北村さんは衆議院の成り立ちにおいて最重要人物でした」と書かれていましたので、ぜひお聞きしたく。
そんな我々のスタジオ遊びを、ハヤシ楽器の常連だった北村さんが見つけてくれまして、「面白いからうちの主催ライブに出てみないか?」と言ってくれたのがすべての始まりでした。
つまり、あそこで北村さんと出会ってなかったら、ライブの出方がわからないまま一生を終えていたかも知れない わけで、私にとっての北村さんは、宇宙で言うビッグバンと言えましょう。
北村さんと出会ったからこそ、のちのサイモンガー&ファンク、そして現在のサイモンガー・モバイルの活動がある。
そして、当時の加藤さんがこだわり抜いて作曲・編曲した譜面を、チョッパーベースでさらりと完璧にこなされた北村さん。
とても素敵なエピソードを聞かせていただきました。お二人とも、本当にありがとうございます。
(Reprise 3: 大臣さんへの追加インタビュー)
さらにさらに、同じく大臣さんにも同様の追加質問をお願いしました。サイモンガー(加藤)さんとの活動の他にも、あまりにもたくさんの活動をこなされていた大臣(陶山)さんらしく、大量のエピソードを教えてくださいました。
上の北村さん、サイモンガー(加藤)さんへの追加インタビューとは大幅に異なるテイストを、ぜひお楽しみください(笑)
バンドの練習は、私の自宅で毎日のように行っていました。僕が幼少時からドラムスを習っていたので、ドラムセットがあり、兄がギターを弾いていたので Roland JC-50 というギターアンプもあり、あとは、リサイクルショップでグヤトーンのBASS60というベーアンを僕が買ってきて、自宅スタジオの出来上がり、という塩梅でした(笑)。くわえて田舎ですので、まあ窓を閉めていれば、バンド練習の音も許容いただけるご近所様の温情もあり、環境に恵まれていたことが、当時の驀進の秘訣だったのかなと今思います。
春(1985年4月頃)に結成して、たぶん5月にはデビューライブをやってたと思います。たぶんテントホールでしょうか。「たけやぶやけた」は、一番最初に出来ていたので、その1曲で、当時のポプコン、W2(だぶだぶ:当時の LMC の東海版、関東では EAST WEST でしたかね)にエントリー、いきなりの豊橋大会優勝、セミファイナル優勝、ファイナルの駿府城公園まで出場しまして、そこのゲストが VOWWOW だったのが感動でした。残念ながら全国には進めませんでしたが。
もう1つの CBS ソニー系のコンテスト(YMF: ヤングミュージックフェスティバル)にも出場、こちらには衆議院とか、北村さんがドラムを担当していたバンドも出ていたようですが、こちらも、名古屋での中部地区決勝進出、優勝は逃しましたが、なんか賞を頂いた気がします。ちなみに優勝は、Eat ’n’ Clop という、非常にお洒落なバンドでした。今でも活動されてるのかしら。
そこで、浜松ヤマハ本尊(笑)が、圧力団体をイチオシバンドとして推して下さり、梅田さんというプロデューサの下、四つ池スタジオでのレコーディング、ショーケースライヴなど、いろいろやらせていただきました。
当時の大臣さんの情熱が伝わるエピソードの数々ですね。それにしても、ものすごい熱量でバンド活動に邁進されていた当時の陶山青年、ホントにカッコイイですね。
では引き続き、大臣さんによる当時のエピソードです。
ヴォーカリストは当時野球部のエースでもあり(確か結構なピッチャー)、ライブに出られないことも多々ありました。その時は、別のヴォーカリストを迎え、「圧力団体M」(M = もどき)と自嘲しつつ(笑)たびたびライブを行っていました。
1985年冬に、さらなる音圧増加をもくろみ、別のハードロックバンドから引き抜いたキーボーディストを迎え入れました。
1986年は、打ち込みを導入した「ごきぶりハウス」で、ポプコン、W2 とも初戦〜準決勝は突破しましたが、決勝進出はならず。YMF も、決勝進出したものの入賞はならず。
1986年には、既にオリジナルも多数出来上がり、爆風のコピーは辞めていたと思います。「たけやぶやけた」の歌詞を「爆風やめた」に替え歌にして歌っていた記憶があります。
1986年夏には、かごやはうす初の「高校生バンドコンテスト」出場、最高得点を得ながらも、「制限時間オーバーで失格」という名誉を授かりました(笑)。優勝は、のちにCBSソニーからデビューした「ペッパーボーイズ」でした。
ただ、ギタリストがなかなか定着せず、1985年のどこかでオリジナルギタリストが脱退後、3〜4人が入れ替わり立ち替わり参加しては去りでした。僕の我が強すぎたのでしょうか(笑)。我ながら、最年少のくせに、厳しいリーダーだったと思います。
1986年秋〜冬頃でしょうか、キーボーディストが抜けたタイミングで、ヒンギィ出杉こと加藤を説得して圧力団体に加入させました。ところがその前後にドラマーが脱退。バンドとして機能しなくなりそうなところに、助っ人的に年上のギタリストとドラマーに参加してもらいました。このお二方は当時23歳くらいで、三河フュージョン界で活躍していたバカテクコンビでした。
大幅にスキルアップした、新生圧力団体で、その頃オープンした豊橋かごやホール(かごやはうすも手を広げていたのですね)を中心に、ライブを重ねましたが、翌1987年、1月2月とライブを行ったのち、3月のライブを、とある事情であろうことか穴を開けてしまい、そのまま圧力団体は自然に活動休止となってしまいました。
「当時のエピソード」といいますか、「圧力団体ヒストリー」を熱く語ってくださった大臣さんでした(笑)
続いて、その他の質問に移りましょう。
なんとなく、分かります、大臣さんのこの発言(笑)
でも、自分とはアプローチも成り立ちもだいぶ異なりましたので(北村さんは生粋のフュージョン)、ライバルではなく、リスペクトしております。当時も今も。
大臣さん、お忙しいところ、たくさんの追加回答してくださり、本当にありがとうございます!
(Bonus Track: 筆者自宅トイレのカレンダーの、娘の書き込み)
いつもは、その日に楽しみにしている予定、あるいはその日の楽しかったこと、その他イラストなどを、こつこつと書き込んでいるのですが、ここ数日はなんと、こんな感じで書き込まれています。。。(笑) 明日(26日)に書き込まれるのは間違いなく「らしいね〜」でしょうね(笑)
果たして、26日に書き込まれたのはやはり「らしいね〜」でした(笑)さらに、27日には「だれがひかりやねん」、28日は「たまにとよはしにとまる〜」と書き込まれていました(笑)
おまけ:サイモンガーさんと大臣さんの年表(1985年〜1988年)
- 1984年夏〜冬頃
- 中学3年生の加藤さん、河井克夫さんらと共に4名でバンド「衆議院」を結成
- 加藤さん、ステージ名を「ヒンギィ出杉」と命名
- まだライブ活動を想定しておらず、日々ハヤシ楽器で遊ぶ日々
- 1984年冬〜1985年初頭?
- 同じくハヤシ楽器常連だった北村さんから「ライブに出てみないか」と声をかけられる
- 1985年1月〜3月(中3の3学期)
- 陶山さん、加藤さん、豊橋のハヤシ楽器店で出会う(この時は声をかけてはいない)
- 陶山さんはMOONのベースをひとしきり弾いたあと、KORG DW-6000 を買って帰る
- 1985年春
- 加藤さん、高校入学祝いに YAMAHA DX7 を買ってもらう
- 衆議院、豊橋の STUDIO 8 にて初ライブ。
- 陶山さん、高校入学直後にバンド「圧力団体」を結成
- 陶山さん、打ち込みポップユニット「ザ・スタンダード」を結成
- 1985年5月
- 圧力団体、オリジナル曲「たけやぶやけた」をひっさげ、さっそくテントホールでデビューライブ敢行
- 圧力団体、その後も月1〜2回のペースでライブ活動を行う
- 1985年
- 衆議院の初代ベーシストが脱退、代わりに別のバンドでドラマーをしていた北村さんがベーシストとしてゲスト扱いで加入。同じ頃、セカンドキーボードもゲスト扱いで加入、5人体制となる
- 圧力団体、「たけやぶやけた」で東海のポプコン W2(だぶだぶ)にエントリー、豊橋大会優勝、セミファイナルも優勝
- 1985年6月
- ザ・スタンダード、テントホールにて2曲のみのデビューライブを行う
- 1985年8月
- 陶山さんの「圧力団体」と加藤さんの「衆議院」、豊橋のテントホール対バンで初顔合わせ、お二人の交友が始まる
- 圧力団体、豊川のかごやはうすで単独ライブ。高校生バンドによる単独ライブは初だったとのこと
- 圧力団体、W2(だぶだぶ)のファイナル、駿府城公園に出場、ゲストの VOWWOW とステージを共有
- 1985年後半?
- 衆議院、バンド名を「衆議院・ザ・グレート」に改名
- 圧力団体、「ごきぶりハウス」のプロモーションビデオ制作
- 圧力団体、音圧増加を狙って、キーボードを追加、メンバーが5人となる
- 1985年12月23日
- 衆議院・ザ・グレート、1985年12月23日に STUDIO 8 でライブを行う。対バンは、北村さんがドラムを叩いていたバンド
- 1985年12月〜1986年1月?
- 12月23日のライブのあと、北村さんとセカンドキーボードの方が、衆議院の正式メンバーとなる
- 1986年
- 衆議院の初代ヴォーカリストが脱退、あわせてセカンドキーボードメンバーがヴォーカルのポジションに転向
- ザ・スタンダードのキーボードが脱退。代わりに加藤さんがセカンドキーボードとして加入
- 圧力団体、オリジナル曲が揃ってきて、爆風スランプのコピーから脱する
- 1986年夏
- 圧力団体、かごやはうす初の「高校生バンドコンテスト」に出場。最高得点を得ながらも、制限時間オーバーで失格
- 1986年秋〜冬頃
- 圧力団体のキーボーディストが脱退、加藤さんが後任キーボーディストとして加入
- 1986年暮れ
- 衆議院・ザ・グレート、バンド名を「ローリング・フトーンズ」に改名
- 陶山さんが中3の時に自作したオブジェのような楽器「トルプス1号」、ローリング・フトーンズのステージで使用
- 1987年1月25日
- 圧力団体、豊橋かごやホールでライブ。この時、加藤さん作曲の「貯金」が歌詞を変えて「宝くじ」として披露された
- 1987年
- 北村さんがローリング・フトーンズを離れ、圧力団体の陶山さんが後任ベーシストとして加入
- 1987年3月
- 圧力団体、解散
- ほぼ同時期に、ザ・スタンダードも活動停止
- 1987年暮れ?
- ローリング・フトーンズ、解散