はやいもので インタビュー Pt. 0 (ちびっこインタビュー編) 公開から、はや1週間が経過してしまいました。
当該記事へのアクセスも非常に多く、いかに多くの方々が今回のインタビューに興味を持って下さっているかが分かり、身の引き締まる思いです。
ロングインタビューを受けました。これでまだ序章です。 How The Funk Was Won:The Simonger&Funk Story,Pt.0 https://t.co/Bi9U7UU3tA
— サイモンガー11/22高円寺稲生座 (@smgfnk) November 9, 2015
ロングインタビューいただきました。サイモンガー&ファンクを軸に、われわれの歴史を解き明かしていただきます。この序説より!
How The Funk Was Won: The Simonger & Funk Story, Pt. 0 https://t.co/puiwOJVcrG
— ファンクラ大臣@CD制作中 (@dieginn) November 9, 2015
娘ちゃんrulezのすごいインタビュー。娘ちゃんがザッパ好きで、サイモンガー氏がNegicco好きで、嫁モバさんがイラケレ好き、なんかいろいろ最高すぎる。 https://t.co/C7J36wIRSG
— mucho saaaaan⤴︎ (@muchonov) November 9, 2015
さて、今回の Pt. 1 から、いよいよインタビュー本編へと突入します。とはいっても、サイモンガー&ファンク が登場するのは、まだまだ先です(今の予定では、Pt. 5 か Pt. 6 あたりになると思います 笑)。
今回は、サイモンガーさんとファンクラ大臣さんの小・中学生の頃のおはなし です。どんな音楽がきっかけで楽器や作曲を始めることになったか、その源流についてのパートになります。
なお、実際のインタビューの時系列のまま掲載しているわけではなく、インタビュー全体から流れを再構成していますことをご了承ください。また、11月7日のインタビュー後に、メールやチャットでお三方から追加情報を適宜いただいており、それらも反映されたものとなります。
では、お楽しみください!
Contents / 目次
インタビュー登場人物

サイモンガー(加藤)さん

ファンク(小野寺)さん

ファンクラ大臣(陶山)さん

筆者の娘(8歳)
(写真は5歳当時)

筆者
Pt. 1: サイモンガー meets 大臣(の前夜)
(Pt. 0 から続く)





















































































































なんでしたっけ、ファンクさんとサイモンガーさんがものすごくヒマなバイトで知り合って、でしたっけ。

































































































































































































































































































































































































































































ああ、(大臣が)DW-8000、いやちがう、DW-6000 買いに行ったときでしょ?






































































































































































































































































































































サイモンガーさん、はじめのはじめ














































































































































サイモンガー・モバイルファンの間では有名な、ご実家の喫茶店。私もいつか機会があればぜひ伺ってみたいと思います。けど、豊橋って、通過したことしかないんですよね。。。「たまに豊橋に止まる」ひかり号に乗って行けばいいんでしょうね(笑)
そして実家がやってる喫茶店でいつものヤツ。 http://t.co/lOXminku
— サイモンガー11/22高円寺稲生座 (@smgfnk) December 31, 2012







































で、YMO のテープをウォークマンと一緒に借りまして。えーっと、あれは確か、ファースト(Yellow Magic Orchestra)とセカンド(Solid State Survivor)が2枚一緒に入ったカセットで。


































やはり出て参りました、イエロー・マジック・オーケストラ の名前。サイモンガーさんの音楽的源流はここにあったんですね。







































けど、小学生が(親に)ねだるものとしては、シンセサイザーは高すぎたんですよね。







































































わたしが、このくだりで一番びっくりしたのが、サイモンガーさん、とにかく記憶力が抜群だったことです。当時の定価を、よどみなくスラスラと話されるその姿、本当に当時の加藤少年が、どれだけシンセに夢中になって、欲しくて欲しくて仕方がなかったか、楽器店に通ったりカタログを穴があくほど読んだり、きっとされてたんだろうなぁ、と思いました。
けど、確かに私も「PC-8001の定価は168,000円」「MZ-80B/80B2の定価は278,000円」「X1D (CZ-802C) は198,000円、ディスプレイのCZ-802Dは128,000円」「ぴゅう太は59,800円」とか、すらすら出てきます(笑)
私(インタビューア)もサイモンガーさんや大臣さんの一つ下の学年、つまりほぼ同世代ですので、当時ポータサウンドについて知っていてもおかしくなさそうなものなんですが、私はクラシックピアノしかやっていなかったので、シンセなどの電子楽器系は当時全然興味がいかなかったのかもしれません。
それはさておき、「ポータサウンドとの長いつきあい Vol.1」というサイトによりますと、
PS-1(1980年、32鍵、アイボリー) PS-2(1980年、37鍵、チョコレート色) PS-3(1980年、44鍵、チョコレート色、36,000円) PC-100(1982年、78,000円) MK-100(1983年、59,800円)
と、この辺りが当時の加藤少年の心をときめかせたポータサウンドということになりそうですね。


- 参考: YAMAHA Portasound PS-3
(サイモンガーの彼岸、2004年4月9日)







































で、中学生になったら、多重録音をやっている友達がいまして。







































































































実家で見せられた、地方名士が表紙の何か。 http://t.co/9t1ueMFF
— サイモンガー11/22高円寺稲生座 (@smgfnk) December 31, 2012







































だから、最初は「バンド」とかではなくて、私の音楽は「多重録音」から始まってるんです。


















































































































































まあ、当時はシーケンサーとかもなかったですし、なんせポータサウンドしかなかったんで。
で、いちばん近所に ハヤシ楽器 というのがありまして。そこに通っておりました。同級生の女の子の家でもあったんですけど(笑)




















































































































そこで、中3のとき、初めて当時の大臣と出会ったんです。
































ファンクラ大臣さん、はじめのはじめ











































































































































2歳からヴァイオリンを始め、3歳からピアノ弾いて、5歳から作曲を始め、6歳からドラム叩き、小学校に入ったらラッパを吹き。そんな風に音楽は英才教育(笑)で来たんですよ。ずっとそれで来ていて。
で、ベースはですね、出会ったのは ヒカシュー なんですよ。


































































その時から「俺はベースを弾いて歌を歌う!」と、人生決めてたんです、小学生4、5年の時から。
大臣さんの口から「ヒカシュー」という名前が出てきたことも、大変意外でした。
そういえば、あれ、ヒカシューのベーシストって、坂出雅海 さんじゃなかったっけ、と思ったのですが、後日大臣さんに確認してみたところ、「(テレビで初めて観た)ヒカシューでベースを弾いて歌っていたのは、紛れもなく巻上さんです。坂出さんは、4枚目から加入され、ベース専任となり、巻上さんがヴォーカル専任になりました。」 とのことです。
以下のビデオは、当時の陶山少年が観た番組そのものではないそうですが、同時期のヒカシューの映像として紹介してくださいました。確かに巻上さんがベースを弾かれてますね。




































































































ブルーコメッツ(の高橋健二さん)が弾いてた、黒いヴァイオリンベースで。それを小学校5年生の時の誕生日プレゼントに買ってもらったのが、最初のベースなんです。
でました、伝説の ファーストマン バロックベース!
大臣さんは、この人生最初のベースを、今でも大事に所有されているそうです。


- 参考: F2
(ファンクラ大臣の増え~る(?)-BASSINDEX-)




































































































































そのあと、中学でも、実はいくつかバンドはやってたんですよ。学園祭バンドみたいなものを。けど、なんせ「バンド」になるようなレベルではなかったんです。


































































それまでは、ベースって指でこうやって弾くもんだと思っていたんですが、それが親指でバッチンバッチン弾いてるわけですよ。
「なんだこれは?!?!」ということになりまして。そこで人生変わっちゃったかなぁ、と思いますよね。


































































いやはや、まさか 爆風スランプ の名前が、インタビューで出るとは、想像だにしていませんでした(笑)ファンクラ大臣さんは 江川ほーじん さんのプレイに衝撃を受けてチョッパーベースの道に進まれた、と。
インタビュー後、大臣さんにいろいろ確認してもらったところ、豊川の「かごやはうす」で爆風スランプを観たのは、1983年頃 のことだそうです。デビューシングル「週間東京『少女A』」とデビューアルバム「よい」のリリース日は1984年8月25日ですので、メジャーデビュー前の爆風ということになります。
また、爆風スランプの思い出 というサイトの ヒストリー をみると、「1983年7月 初のライブツアー敢行」とありました。よって、大臣さんが爆風スランプをかごやはうすで見たのは 1983年7月〜12月 ということになりそうです。
のちに大臣さんのご好意で、当時の(デビュー前の)爆風のライブ音源を聴かせていただきましたが。いや、これは本当に凄いですね。いわゆる「爆風スランプ」と聞いて思い描くであろう、後年のあのイメージとはまるで違いました。。。
「ありがとうEVERYBODY」「ええじゃないか」「ゴジラの愛」「ふんだりけったり」「ポックリクラブ」その他。。。もっと荒削りで、もっとハチャメチャで、もっとパンクで。いっぺんで気に入ってしまいました。あー、当時知っていればなぁ。
- 参考: アーリー爆風トリビュートバンドを組もう!!
(ファンキー末吉とその仲間達のひとりごと、2014年6月17日)
デビュー直後のスタジオライブが YouTube で公開されていたので、参考のためにはっておきます。
のちのサイモンガーさん、のちの大臣さん、ついに出会う?







































































なお、お二人が初めて出会われた ハヤシ楽器 は今でも営業しているそうですが、現在では楽器販売はしておらず、スタジオのみの経営となっているとのことです。




















































































































































































































































































































































































あれ、あんときは話をしたんだよね?


































あとから(その時の話を)聞いて、「えーっ、あの時の!」って。







































で、そのお兄さんは、ベースをひとしきり弾いたあと、ベースを弾いたあとですよ、なんとシンセを買って帰ったんですよ(笑)















































































1985年に発売されたKorg DW-8000
(大臣さんが当時購入されたのは下位機種の DW-6000)
(original photo by Matt Perry. CC BY-SA 3.0)



























































































































































だって、DW-6000 は当時16万とかしましたよね。
(注:当時の定価は184,000円だったそうです)


































とにかく、あの時は MOON のベースが弾きたくて。今でいう「ハイエンド」な楽器を弾きたくて。「うわぁ、MOON だ!弾かせてもらえる!」ってな感じですよ。







































あれですよ、今より20kgくらいやせてましたよ、大臣。










































































































