The Fela/James Brown Connection

本稿は、The Afrofunk Music Forum に 2006年に掲載された David McDavitt 氏の記事「The Fela/James Brown Connection」を、ご本人の許可を得て日本語翻訳したものです。

This article is a Japanese translation of 2006 article by Mr. David McDavitt, entitled “The Fela/James Brown Connection”. Presented here with David-san’s permission.

 

ミスター・ブラウンとオリジナル J.B.’s がナイジェリアはラゴスに赴いたのは1970年12月とされています。その一方で、それに先立つこと数ヶ月、1970年7月22日録音の「There Was A Time (I Got To Move)」や同年8月16日録音「I Got To Move」ではすでに、アフロビート的なアレンジの萌芽が感じられるのは興味深いところです。

Mr. Brown and his original J.B.’s toured Lagos, Nigeria in December 1970. On the other hand, prior to the Lagos one-nighter, Mr. Brown recorded “There Was A Time (I Got To Move)” (recorded on July 22, 1970) and “I Got To Move” (recorded on August 16, 1970) – both already shows an interesting sign of influence from Afro music.

 


 

The Fela / James Brown Connection
(by David McDavitt, published April 22, 2006. 原文 / original article)

Fela Kuti and James Brown

フェラ・クティ (Fela Kuti) のアフロビート、ジェームス・ブラウン (James Brown) のソウル。それぞれに信者がおり、かつ互いの音楽の素晴らしさをたたえ合ってきた。だが、依然として論争は続く — どっちがどっちをパクったのか?

神話や噂で溢れかえった議論だが、アフリカとアメリカの間では音楽的交流・交配が絶え間なく続いてきたのであり、真実はそう単純ではない。フェラとJBは互いに影響しあった、それが普遍的真理である。「天才は別の天才を見つけ、そのファンクを我がものにせんと渇望する」。

ジェームス・ブラウン、そしてシエラレオネからやってきたJBの信奉者 ジェラルド・ピノ (Gerald Pino)、両者の重いグルーヴと顕著な成功にフェラ・クティが衝撃を受けたのは1960年代半ばのことであった。フェラは言う。

ピノの楽器は… 半端なかった… ヤツの登場は華々しく眩しかった… でかいアメ車で、楽器はピカピカの新品、羽振りは良すぎ。俺が持ってないものを全てもってやがった… ムカつく程凄いピノがラゴスにもたらしたメガトン級の衝撃を俺は見ちまった… 誰もが奴に夢中だった… 俺にしかできない音楽を確立せねばと分かってた、しかもすぐに!
(“Fela, Fela, This Bitch of a Life”、Carlos Moore 著、1982 より抜粋)
Kindle版
 

その一方でJBのバンドも、シュラインでのフェラの演奏を聴きにやってきて、「アフリカン・フィール」をなんとか会得しようとしていた。ガーティアン誌に掲載された、トニー・アレンとブーツィー・コリンズ(当時のJBのベーシスト)へのインタビューから抜粋してみよう。

フェラのドラマーにしてアフロビートのキーパーソン、トニー・アレンはこう主張する。ブラウンが彼のアレンジャー、デヴィッド・マシューズをよこし、トニーのプレイをチェックさせたというのだ。

『俺の足の動き、俺の手の動きをしっかり見ては、紙になにかメモを残していた… 奴らは、ナイジェリアに来たときに、フェラからあれこれ盗んでいったんだよ。互いに影響し合っていたようなもんさ。フェラはアメリカから影響を受けたし、ジェームス・ブラウンはアフリカから影響をうけた。そういうことさ。』
1970年、ジェームス・ブラウンとともにナイジェリアをツアー中だったウィリアム・ブーツィー・コリンズが、当時をこう振り返る。

『(フェラは)ラゴスにクラブを持っていて、そこに連れ立って行ってみると、皆が俺たちに対して神さまか何かのように接してくれた。俺たちは、あんたらの音楽が、今まで聞いてきたどんな音楽よりも最高にファンキーだ、と言ってやった。つまり、俺たちはジェームス・ブラウン・バンドで、その俺たちがコテンパンにやられちまった、ってことだよ! あれは何物にも代え難い、そんなナイジェリア訪問だったのさ』
 

インタビュー全文は「The Big Fela」こちらをクリックされたし。

 


 

別のインタビューでは、ブーツィはこうも言っている。

奴らは世界最高、以上。俺はあんときそう思ったね。
ジェームス・ブラウンのバンドに加入するよりもっと前から、俺にとってジェームス・ブラウンはナンバー・ワンだった。
だが(シュラインで)フェラとバンドを見てからは、別の考えを抱くようになった… 奴らを聴いた時、それは(ブラウンとは)別の次元のように思えた… もっとディープなフィーリングと感じたのさ… 「うわ、まさにこれじゃねぇかよ。こんな風に演奏しねぇとな!」ってな(笑)…
(Jaybabcock.com より抜粋)
 


 

Red Bull Music Academy に、デヴィッド・マシューズ(ジェームス・ブラウンのアレンジャー)のインタビューがある。

David Matthews (DM):
私がこれまでに聴いた中で最高に素晴らしいものだった。フェラの初期、彼が『アフロビート』と呼んでいたものだった。ジェームス・ブラウンのスタイルやリズムもある程度取り入れられていた。ジェームス・ブラウン的なリズムセクションを備えていて、更にパーカッショニストが8人もいて、アフリカンリズムを叩いていた。そしてその音楽は — 奴らが演奏中には座ってなんかいられない、そんな感じだった。まるで伝染病さ。素晴らしい体験だった。」
Red Bull Music Academy (RBMA):
あなたは実際、フェラのアレンジに感銘を受けたんですよね。
DM:
その通り。
RBMA:
あなたがブーツィたちと作業を行う際、そのアレンジから受けた影響をなにがしか反映させましたか?
DM:
その通りだ。実際、ナイジェリアの子供達がフェラの演奏テープをくれた。フェラはそれを知って、ジェームス・ブラウンがフェラの音楽を盗もうとしていると思った。むちゃくちゃ怒ったんだ! しかし私は、フェラとそのバンドがラゴスで演奏していた、あのフィールをなんとか捉えようと努力した… あのフィーリングを、ブーツィ、クライド(・スタブルフィールド)、キャットフィッシュ(・コリンズ)とのレコーディングに注入しようとした…
 

デヴィッド・マシューズへのインタビュー全文は、こちら をクリックしてご覧いただきたい。

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