ダイナ・ワシントン (Dinah Washington)、大好きです。初期ブルース/R&B時代も、中期ジャズ時代も、後期ポピュラーシンガー時代も。いかなる曲でも、いかなるジャンルでも、あの声が聴こえてきたとたんに全てが彼女の音楽になってしまいます。特定のジャンルにとどまらなかったことで、ブルース畑からもジャズ畑からもハードコアな(?)音楽マニアからは注目されにくいいのが、本当にもったいないです。
最初期のキーノート (Keynote) レーベル (1943年) やアポロ (Apollo) レーベル (1945年)、晩年のルーレット (Roulette) レーベル (1962年〜1963年) を除いて、そのキャリアの大半 (1946年〜1961年) の音源はマーキュリー (Mercury) とその傍系レーベルに残されており、人気盤は現在に至るまで幾度となくリイシューされてきました。集大成となるボックスセットもありますので、ほぼ全音源が現在でも入手可能です。ストリーミングでも聴くことができます。
音楽マニアではなく、多くの一般リスナーにとっての代表的な曲といえば、なんといっても名曲「What A Diff’rence A Day Makes」(邦題:「縁は異なもの」)でしょう。1959年2月19日、ニューヨーク録音。夏には Billboard の R&B チャートで1位、ポピュラーチャートで8位を記録した大ヒット曲で、1959年グラミー賞で最優秀R&Bレコードも受賞しました。
いかにも1950年代後半〜1960年代前半という感じの、ベルフォード・ヘンドリックス (Belford Hendricks) 指揮、クライド・オーティス (Clyde Otis) プロデュースによる、ストリングスたっぷりで甘ったるいイージーリスニング風バックですが、ゴスペルやブルースを出自とした人にしか歌えない、そして確固たる信念と自信の裏に見え隠れする身近さやか弱さを感じさせるダイナの歌唱は、涙を誘わんばかりです。
一方、そんなポピュラーソングであっても、ジェロム・リチャードソン (Jerome Richardson), チャールズ・デイヴィス (Charles Davis), ジョー・ザヴィヌル (Joe Zawinul), ケニー・バレル (Kenny Burrell), ミルト・ヒントン (Milt Hinton), パナマ・フランシス (Panama Francis) といった錚々たるジャズの名手がスタジオミュージシャンとしてバックを支えているのも興味深いです。
で、この Dinah Washington の代名詞とも言える名曲「What A Diff’rence A Day Makes」(あるいは「What A Diff’rence A Day Made」) ですが、いかにも1959年当時らしいステレオミキシングになっています。リズムセクションは右(ベースは真ん中)、ストリングスは全体に広がり、Dinah 本人のヴォーカルは左に固定されているという感じです。
この「ヴォーカルが左」という定位は、Mercury に限らずステレオ最初期のポピュラー録音ではけっこう見受けられます。例えばサラ・ヴォーン (Sarah Vaughan) の名盤「After Hours At The London House」のステレオ盤 (Mercury SR-60020) でもやはり、リズムセクションは右寄り、ヴォーカルは左、そしてピアノとトランペット、テナーサックスが曲によってステレオフォニックないし左寄りのセンターに定位する感じでミックスされています。ステレオレコード最初期の試行錯誤なのであるいみ仕方ないですよね。当然、モノーラル盤 (Mercury MG-20383) で聞く方が自然です。
3つのマイクを配置してそのままストレートに3チャンネル録音をしていた(レコード化する時には中央チャンネルを絶妙にミキシングした)Mercury Living Presence の真にステレオフォニックなクラシック録音とは異なり、各楽器(セクション)をモノラルで録音したものが3チャンネルレコーダの1チャンネルに割り当てられ、それを最終的に2チャンネルステレオにミックスダウンしていたわけです。「オンマイク録音のステレオミックスはどうあるべきか」という、(クラシック以外の)最初期ステレオ録音を担当したエンジニア達による黎明期の試行錯誤を追体験できる、と考えることができ、非常に興味深いです。
余談ですが、ビートルズの最初期ステレオ盤などは、ステレオ録音を意図していなかった2トラックテープをそのまま左右チャンネルに割り振ってステレオ盤として出したものです。Dinah や Sarah の当該盤もある意味それに近いケースと言えるかもしれませんが、当時のアメリカ(そして Mercury レーベル)では、ステレオ盤発売ブームの真っ最中でしたから、あえてこういうミックスを狙って行ったものと思われます。
で、話を Dinah Washington の「What A Diff’rence A Day Makes」に戻します。現在聴ける同曲のほとんどが、前述の通り「ヴォーカルは左」「リズムセクションは右(ベースは真ん中)」「ストリングスはステレオフォニックに広がる」というミックスになっています。これを以下「ヴォーカル左固定ミックス」と呼ぶことにします。
しかし、1種類だけ、微妙に違うミックスがされているものが存在しています。
それが聴けるのは1963年1月にリリースされた2枚組LP「This Is My Story」のステレオ盤 (Mercury SRP-2-603) という2枚組LPです。このアルバムは SR-60765 と SR-60769 というカタログ番号の2枚組ですが、この SR-60769 に収録されているもののみ、ヴォーカルが中央〜中央寄りの左に定位されています。しかし残り2チャンネルは同じく「リズムセクションは右(ベースは真ん中)」「ストリングスはステレオフォニックに広がる」です。
このアルバムは、Dinah Washington と Mercury との契約が終了したのち、これまでの集大成として制作された2枚組アルバムで、1枚目は過去の名唱を1961年12月に再録音したもの、2枚目は(当時の)Dinah の過去のヒット曲のコンピレーションとなっています。1枚目の再録音およびアルバム全体のプロデューサは クィンシー・ジョーンズ (Quincy Jones) です。
Billboard 1963年1月12日号「今週のおすすめ新譜」に掲載された、SRP-2-603 のレビュー
そもそも Quincy が Mercury でアレンジャーとして働けるよう仕事を与えてくれ、のちにマーキュリーの副社長になる足掛かりを作ってくれたのが Dinah Washington その人ですから、恩人への最大限の恩返し的なアルバムといっていいでしょう。その際、過去の録音も少しはヴォーカルがセンター寄りになるよう、このアルバムの2枚目用にステレオミキシングし直したのではないかと考えられます。
Billboard 1963年3月30日号に掲載された、SRP-2-603 の広告
3トラックマスターテープを使って、このような再ミキシングが可能になった、ということは、以下のようにトラックが割り当てられてミキシングしながら録音されていた、と推測されます。1959年当時には、最大でも3トラックのテープデッキしかなかったですし、ビートルズ(とジョージ・マーティン)が1960年代中盤に行ったような、マルチトラック録音を多段で駆使なんてことはやっていたはずはありませんから。
- ヴォーカル: 単一トラックに収録
- ストリングス: ヴォーカルの入っていない2トラックにステレオフォニックに割り当て
- ドラムスとバックコーラス: ヴォーカルの入っていない2トラックのうち1つにモノフォニックに割り当て(右チャンネル固定を意図)
- ベース: ヴォーカルの入っていない2トラックに均等にモノフォニックに割り当て(中央固定を意図)
ところが、です。マーキュリーのディスコグラフィー本として決定版である5冊組「The Mercury Labels: A Discography」(1993, Ruppli & Novitsky) にも、その別ミックスのマスターバージョンが記載されていないのです。現在もアップデートが続いていて最も信頼がおける、Tom Lord Discography においても、やはり別マスター番号は見当たりません。全てステレオマスター番号「PB 1638」とされています。まぁ演奏が異なるわけではなくてミキシングが違うだけなので、そういうこともありえるかもなんですが、Ruppli 本の中では別ミックスに割り当てられた別マスター番号も丁寧に記載されているので、やっぱり腑に落ちません。わざわざ別マスター番号を割り当てるまでもないほど軽微な修正、ということなのかもしれませんが。。。
DINAH WASHINGTON: Dinah Washington (vo) with Belford Hendricks Orchestra, incl. Jerome Richardson (sax), Charles Davis (bars), Milt Hinton (b), Panama Francis (ds) & strings.Mercury Sound Studio,NYC, February 19, 1959 18190 (PB 1638) What a diff'rence a day Merc.71435,SS-10008,C-30078x45, makes EP1-3395,MGD-9,MGD-11, MG20479,MG20511,MG20581, MG20768(alb.MGP2-103), MG20788,SR60769(alb.SRP2-603), SR61189(alb.SRM2-601),830700-2, 842826-2 Wing SRW16413 MGD-9/11/MG20479/20511/20581/20769/20788/20789(mono)=Merc.SRD-9/11/ SR60158/60217/60241/60769/60788/60789(stereo).
ここにリストアップされている全てのステレオ盤をくまなく確認したわけではないので、他にも同じ「ヴォーカルが中央寄りの左」ミックスが収録された盤が存在するのかもしれません。特に、SRP-2-603 (SR-60765/SR-60769) リリース後に1枚ずつにバラ売りされた(このタイミングで曲順も変更された) SR-60788「This Is My Story Volume 1」に収録されている可能性は高そうです。
ともあれ、少なくとも SRP-2-603 (SR-60769) には間違いなくその「PB 1638」 ではないステレオ別ミックスが収録されている、これは事実です。
Spotify には、現在 Dinah Washington の 「What A Diff’rence A Day Made (Makes)」 が何十種類も登録されていますが、シングルバージョン(モノーラル)を除いたステレオバージョンのうち、1つを除いてやはり従来の「ヴォーカル左固定ミックス」となっています。ですからやはり、元のLPアルバム「What A Diff’rence A Day Makes!」(Mercury SR-60158) 用に作られた2チャンネルマスターからディジタル化されているということなのでしょう。
Spotify 上で唯一の例外(下に掲載)となる音源はというと、「ヴォーカル左固定ミックス」の左右チャンネルを、それぞれ中央寄りに寄せてリミックスしたもので、リズムセクションも右から中央寄りに移動されており、やはり SRP-2-603 に収録されたバージョンとは異なります。
Spotify で見つけたリミックス。
従来の「ヴォーカル左固定ミックス」の左右をそれぞれ中央寄りにしたもの。
追記 (2021/01/24): この中央寄りリミックスは、1989年に日本フォノグラムからリリースされた「Complete Dinah Washington on Mercury Vol. 6」にも収録されていることを確認しました。おそらくこのタイミングで作成されたミックス、ということなんでしょうね。
以下余談です。そもそも 「What A Diff’rence A Day Makes (Made)」 という曲は、もともとスペインの マリア・グレーヴァー (Maria Grever) が1934年に作詞作曲した「Cuando vuelva a tu lado」(When I Return To Your Side) という曲だったそうです。
これはリベルタ・ラマルケ (Libertad Lamarque) による1953年の録音
これに同年スタンレー・アダムス (Stanley Adams) が英語歌詞をつけてこの英語タイトルになったとのことです。最初に録音したのはジミー・エイグ (Jimmie Ague) (1934)、そしてフレディー・マーティン (Freddy Martin) (1934), ドーシー・ブラザーズ (Dorsey Brothers) (1934) などと続きます。1935年にはコールマン・ホーキンズ (Coleman Hawkins) とジャンゴ・ラインハルト (Django Reinhardt) によるバージョンも残されている他、1947年にはサラ・ヴォーン (Sarah Vaughan) もコンボで録音しています。これらの多くは、スウィングっぽいミドルテンポなアレンジ(けれどもメロディはメランコリック)となっています。
ところが、Dinah Washington によるバージョンが 1959年にリリースされ、大ヒットを記録したあとは、このバージョンが以後のアレンジの下敷きとなり、ありとあらゆる著名シンガーが録音することとなりました。例外はマンボっぽいベン・E・キング (Ben E. King) バージョンと、ディスコチューンにアレンジされたエスター・フィリップス (Esther Phillips) バージョンでしょうか。